「草の根のファシズム」とは―今も続く帝国意識

講演する吉見義明さん

講演する吉見義明さん

3月16日(金)飯田橋で、「『草の根のファシズム』と現代」をテーマにした吉見義明さんの講演があった。23名の参加だった。

 吉見さんの著書『草の根のファシズムー日本民衆の戦争体験』(東京大学出版会)をもとにお話しされた。多くの日本人が熱心に支え、幾多の深淵を見た「アジア太平洋戦争」。民衆はその戦争をどのように受け止めどのように語ったのか。1987年に刊行された本だが、今も多くの人に読まれ続けている。

 講演は、第一次世界大戦がその後の国際社会に大きな変動をもたらしたというところから始まった。その一つとして、戦争の被害を教訓とした民衆の間で民主主義運動が盛り上がり、アジア各地では民族解放運動が高揚していった。
 
■大正デモクラシー

 こうした国際社会の状況の中で、日本は植民地主義へと舵を切っていく。そのこととアジアの民族解放運動の関係が日本ではどう捉えられたのか?という観点から、大正デモクラシー運動における吉野作造と石橋湛山の思想と態度を見ていった。

 吉野は、5.4運動に連帯を表明し、3.1運動の正当性を主張した。多くの人が衝撃ないし反発を示す中でも、少なくとも朝鮮人には「祖国を恢復する権利」があるとしたという。石橋は、中国の民族運動は力で抑えることは不可能だとし、満蒙権益放棄・植民地も解放すべきだとした。対立が不可避なら膨大な費用がかかるし、植民地にも維持費かかる。よって小日本主義でいくべきで日本経済は自由貿易主義でと主張したのだ。だが、当時の日本社会では、植民地主義でやっていくしか道はないという考えが主流であり、1933年以降には石橋のような主張は人びとに受け入れられなくなっていった。

■ある民衆の実像:阿部太一さんの場合(1907年生まれ、高小卒)

 ではこうしたなかで、民衆はどのように考えていたのか?阿部太一さんの例が取り上げられた。(以下、特に断りがない場合には『草の根のファシズム』掲載の事例。)阿部さんの記録からは、満州事変以前、事変期、日中戦争期で、戦争が自身の生活へどれだけ影響したかの違いから戦争への態度が変化していくことが示されていた。ここから戦争が日常生活の中に組み込まれる中でナショナリズムが高揚していったことがよく分かるということだった。

■昭和デモクラシー:1935—1937

 とはいえ、満州事変から日中戦争へと民衆の気持ちがいっきに流れていったわけではなかったという。

 5.15事件の際には、不景気だったこともあって民衆は反乱者に対して同情し激励したが、2.26事件の時は、都市の景気がよかったことなどもあり民衆の反乱軍への反発を激しく、民政党代議士の「粛軍演説」を強く支持した。

 また民主化を求める社会大衆党が、国民生活の向上を訴えて都市部で高得票し躍進した。つまりこの時期、民主化、国民生活の向上を求める動きが民衆にあったことがいえる。これを坂野潤治は「昭和デモクラシー」と呼んでいる。(坂野潤治『昭和史の決定的瞬間』ちくま新書、2000年)。だが、結局、「民主化」と「平和」を求めた民衆の声は分裂したと坂野は分析している。社会大衆党と政友会・民政党は、互いに同情的ではなく、統一されることはなかった。

 そして、陸軍の反対によって宇垣一成内閣は誕生しなかった。このことへの民衆の批判。とはいえ、宇垣内閣ができたからといって、反ファシズム内閣ができたかといえばそうではなかっただろう。それでも陸軍の動きは止められた可能性があった。このように民衆の声は政治に反映されなかった。

 これ以降は、日中戦争での体験とアジア・太平洋戦争の体験ということで前者では男性1人、後者では男女一人ずつが取り上げられた。

■日中戦争の体験:戦場からのファシズム

山本武さん(1913年生まれ、福井県自作農。第9師団歩兵第36聯隊兵士)の場合。
 ここでは、南京攻略作戦と徐州会戦での記録から山本さんの軍人と民間人に対する心情の違いについてふれられた。軍人に対しては仲間を殺されたことに対する敵討ちといった側面や中国の交戦力の大きさへの認識もあって虐殺をも厭わないが、住民へのそれには罪の意識も垣間見えた。

 こうした記述から、吉見さんは戦場体験には両義性があると言われた。つまり、一方で戦争に対する嫌悪感、おぞましさの認識と、他方で中国民衆の抵抗、抗日戦への恐れや敵愾心および苦しい戦争を戦い抜いたほこりの感情の共存があるのだと。そして戦争中は、前者の認識や自由・平和の願い、他者への思いやり、共存といった価値観は背景に追いやられるのだと。

■アジア・太平洋戦争の体験:戦場と焼け跡からのデモクラシー

 1.矢野正美さんの体験(1920年生まれ、機帆船船員。戦車第2師団兵士。)

 ルソン島でのフィリピン民衆(ゲリラ)との戦いについても触れられたが、特に注目するべきは米軍の捕虜収容所での体験についての記録だと吉見さんは言われた。ここでは日本国家のおぞましさに気づいたことが書かれている。捕虜収容所の時のメモをもとに戦後に書かれた記録なので、戦後の考えが反映されているのかもしれないと留保をつけつつも、ここには戦争責任の自覚が見えると吉見さんは指摘された。少数でもこう思ったひとがいたということを確認しておく必要があるということだった。

2.青木祥子さんの体験(1923年生まれ。中島飛行機職員。自由学園卒業。)*

 中島飛行機では生活指導員として、女生徒らの生活管理と士気の高揚を指導したという。甲府に疎開した工場で、多くが士気低下していた中で、ガダルカナル戦場の詩を読んで、士気を盛り上げたという。こうしたことに青木さんは生きがいを感じていた。だが、敗戦後になると、がらっと考え方がかわる。自由ありがたい。軍国少女からの転換だった。戦争はこりごりという強い意識が芽生えたのだった。

*吉見義明『焼け跡からのデモクラシーー草の根の占領体験』全2巻、岩波書店、2014年からの引用。

■戦後日本の民主主義と平和意識の特徴

 最後にここまでの体験の記録を踏まえて、戦後日本の民主主義と平和意識の特徴をまとめられた。戦争はもうこりごりだという意識、戦争にくみこまれることを拒否する強い意識は誰もが共通して持ったが、日本以外のアジアに対する戦争責任意識は希薄だった。矢野さんの例など一部に例外はあるものの多くはその傾向が見られた。アジアをもっと詳細に見ると、中国への責任意識はそれでもある程度ありつつも、東南アジア、朝鮮、台湾となるとさらに責任意識は少なかった。

 こうした人びとの意識の背景としては、戦争に対する反省が自覚的に行われるというよりも、歴史の流れに沿ってなし崩し的に考え、行動するという特徴があったのだろう、ということであった。一方で、これらは戦争体験に裏打ちされた極めて強い意識だとも言えるが、だからこそ戦争体験世代が姿を消していく中で、大きな転換が起こりつつあるのが日本の現状だと話された。

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 講演後は参加者からの質問や感想が相次いだ。その中で、植民地主義への舵きりが日本の重大な岐路だったという吉見さんのお話を受けて、どうして当時の日本社会の大多数がそれに乗って行ってしまったのか。またその当時からの帝国意識は今も続いているのではないか。という問いかけは非常に印象的だった。吉見さんからの回答は、当時の民衆の意識としては、「かわいそうだけど仕方ない(侵略先や植民地支配先の民衆に対して)」という意識だったのではないかと推測する。また、そもそも、そのようなことを考えないようにしていたのではないか。ということだった。
 
 今現在の日本社会にも帝国主義は継承されてしまっていると私も感じるが、それは多くの人には見えていないだろう。おそらく見ないようにしているのだろう。ではそこから一歩進むにはどうすればいいのだろうか。別の質問への吉見さんの回答にその答えがあるように感じた。つまり、何度でも伝えていくということだろう。日本社会の意識を変えていくことで、近隣諸国との本当の意味での信頼関係が築くことができるようにしていきたい。(五郎丸聖子)

会場からも質問をうけつけた

会場からも質問をうけつけた