元第五福竜丸乗組員が語る…ビキニ被爆64年集会

想いを語る大石さん

想いを語る大石又七さん

9月22日(土)江東区・夢の島マリーナの会議室で「ビキニ被爆64年久保山愛吉忌―対談と映像の集い」が築地にマグロ塚を作る会の主催で開催された。

前日の23日は、第五福竜丸の船員の久保山愛吉さんが亡くなった日だ。1954年、米国はビキニ環礁で水爆実験をおこなった。たまたま近海で操業して いたマグロ漁船の第五福竜丸が水爆による放射性物質(死の灰)を浴び、帰還後に乗組員全員が入院し、その半年後に久保山愛吉さんが亡くなる。これが通称「ビキニ事件」だ。

東京の夢の島にはその事件を悼み、悲劇を後世に伝える「第五福竜丸展示館」があり、当時のマグロ船が保存・展示されている。

建物の裏手には久保山さんの碑と「マグロ塚」がおかれている。この石碑の文字は第五福竜丸乗組員だった大石又七のものだ。

ビキニ事件当時、放射能の脅威が喧伝され、事実としても放射能で汚染された魚(マグロなど)が東京都の手で築地市場の一角に埋められて廃棄された。その問題も含めて、マグロ塚をという想いが大石さんたちにはあったが、市場が整備されていないとの理由でマグロ塚は夢の島に設置された。

集会は「大石又七さんが語る核と被爆」(25分)の上映。「なぜ今マグロ塚なのか」という大石又七(第五福竜丸元乗組員)さんと市田真理(第五福竜丸展示館学芸員)さんの対談で進行した。

なぜ、マグロ塚なのか
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大石又七さん

当時、マグロが好きで食べていましたが、放射能で食べられなくなった。パニックです。魚が好きでした、なのに食べられない。そういう時代。そういう事になって初めてわかった。その事を思い出すために、マグロ塚をつくり、昔あったことを伝えたい。

塚の下にタイムカプセルを埋めたい。素焼きの壺で、展示館の資料や私が大学や中・小学校で話してきたのですが、その記録など。

多くの学校にいって話したかったんです。そして私の話を聞いて、怖いと思ったら、感想文を書いてください。自分の事として考えて下さい、と伝えてきました。

その返事が、手紙や文章がダンボール7箱ぶんに溜まってしまった。

ますます子どもに関心があるのですが、もう年で歩けないし、言葉を石に彫れば、何年後でも伝えられる。そんなことを想い、石に彫って塚にするといいと思います。

原発は反対です。プラスよりもマイナスのほうが多いのではないだろうか。100年も持たないだろうし、原発を廃炉にするのにも多くの金がかかってしまう。

残念ながら築地市場が閉鎖されてしまうが、マグロ塚は残してほしい。将来の人にも考えてほしい。歴史を伝えたいということです。マグロ塚をみて考えてほしい。

原爆・原発、放射能のことは風化させてはならない。世界へ向けて平和を発信するのは築地という所がいいのではないかと考えています。

大きな建造物を建てようとは思っていないんです。道の脇を貸してほしい、そのくらいの大きさのものでいい、道を通ったときに目に入るくらいのささやかなものでいいんです。

   (文責:編集部)

築地市場が豊洲に移転となり、注目が集まっている今こそ、ビキニ事件と原水爆実験の放射能被害と食の問題を歴史として、築地という場所にしっかり刻みんでいく、そういう気概が感じられた。大石さんは年齢は今年84歳ということだが、マグロ塚を残したいという情熱はしっかりと伝わった。

最後に築地にマグロ塚を作る会から、マグロ塚の築地移設を要望する署名活動とプレートを目立つ場所に設置することを中心として進めることが報告された。

集会後に近くの第五福竜丸展示館とマグロ塚の様子を見に行った。写真を載せているのでご覧ください。
(本田一美)

現在は改修工事中で塀囲われている展示館・右側やや奥にマグロ塚がある

現在は改修工事中の白い塀に囲われている展示館。右側やや奥にマグロ塚はある


鬱蒼とした木の下にあり立地はよくない


マグロ塚の石碑とプレート

マグロ塚の石碑とプレート


プレートの説明文

プレートの説明文。最後の段落に「本来であれば、この塚はマグロが埋められた築地市場におくことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることとなりました。 東京都」とある


■参考
築地にマグロ塚を作る会   http://tsukijimaguro.blogspot.com

第五福竜丸乗組員の大石又七さんが新著『矛盾』を発刊しました(原水協通信 on the web)
 矛盾


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