兵士から見た「アジア・太平洋戦争」の現実

11月の3と4日、川崎市平和館において「第26回川崎・横浜平和のための戦争展2018」が開かれた。主催は、地域の市民たちに戦争を伝える活動をおこなっている団体で、登戸研究所保存の会、日吉台地下壕保存の会、川崎中原の空襲・戦災を記録する会、みやまえ・東部62部隊を語り継ぐ会などで構成する実行委員会。

11月4日には吉田裕さん(一橋大学特任教授)の「アジア・太平洋戦争の現実‐兵士の視点から」という講演があった。昨年刊行した『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実 』(中公新書 2017年)が話題になっている。

吉田裕さん(一橋大学特任教授)  

歴史研究者には戦史研究を忌避する傾向がある、と戦後の歴史研究の側面を指摘する声があり、それは現在もあてはまる。地域史・民衆史から軍隊史をとらえ直す、という視点で研究が登場するのは90年代からで、旧軍人・自衛隊関係者による戦史研究(戦訓研究)が主流となる。

その系譜は復員関係機関、陸上自衛隊幹部学校戦史室を経て防衛庁防衛研究所戦史室へという流れがある。また旧海軍関係者は旧陸軍主導の防衛研修所戦史室に警戒して独自に史料調査会を創設し、同会の資料はその後、千代田区九段にある昭和館、大和ミュージアムへと引き継がれる。

そのなかで防衛庁防衛研修所戦史室(部)『戦史叢書』全102巻(朝雲新聞社 1966~80年)は旧海軍エリート将校(特に陸軍)による戦史という性格が色濃い。それは作戦中心で補給や情報、衛生などの軽視があり、兵士や現場・戦場の視点はない、結果、事実と違っていることがある。当然ながら民衆史や地域史から戦争や軍隊をとらえる視点はない、このような厳しい評価は一般的になりつつある(1)。

私の場合は次第に戦場を兵士の視点と歴史学の手法で分析するという問題意識が明確になった。初期には政治と軍事の関係を研究し、その後は戦争犯罪研究、戦争責任研究へと進む。その一方で兵士に焦点を合わせるということが明確になり、『日本軍兵士』(中公新書 2017年)を書いた(2)(3)(4)。

前提として、日中戦争の完全な行き詰まりがある。実は日本軍が戦争を進めたのは日中戦争の臨時軍事費の転用・流用によって軍事予算を膨らませ、軍備を充実させ、太平洋戦争開戦時にはアメリカを上回る軍備を保持していた(5)(6)(7)。

戦没者については日中戦争以降の全戦没者数は軍人・軍属230万人、外地の一般邦人30万人、戦災等による国内の死没者50万人、総計で310万人だが、実際にはそれ以上の可能性がある、詳しいデータがないためにわからないのだ。

日本の場合、年次別、階級別、年齢別、性別等のデータが整備されていないので、推定になるが、310万の約90%が1944年以降の死亡で、これは絶望的な状況のもとでの一方的な殺戮ではないだろうか。戦争終結を決定するのが遅すぎたことの反映だろう(8)。

下級将校の場合は戦死率が高いと思われるが、一般に階級が高いほど戦死率が低なると推定される(9)。

表2 メレヨン島守備隊の戦没率」陸戦学会戦史部会編『近代戦争史概説(資料集)』陸戦学会 1984年

「表2 メレヨン島守備隊の戦没率」
下「表1 中国戦線における損耗」陸戦学会戦史部会編『近代戦争史概説(資料集)』陸戦学会 1984年

ミッドウェー海戦(1942年6月)の日本側の戦死者は3057人で、このうち15歳が4人、16歳10人、17歳59人である(澤地久枝『海よ眠れ 記録ミッドウェー海戦』文芸春秋社 1986年)。これは少年兵に大きく依存した軍隊です。ちなみに同書によると米軍側も17歳の戦死者が8人いる。これは1942年の徴兵法改正で登録対象年齢が18歳に引き上げられるとともに、志願兵の場合は18歳に達していない場合でも入隊を認めていたようである(河野仁『<玉砕>の軍隊、<生還>の軍隊』講談社 2013年)。また年齢を詐称しての志願も行われていた。

余談だが、「子ども兵」(一般的には18歳未満)の研究をすすめる必要がある。戦前においては少年兵に依存した「帝国陸海軍」は特異な存在だが、シガーは子供を戦闘に使用することを禁止する条約として「子どもの権利に関する国際連盟宣言」(1924年)をあげているが確認できなかった(10)。ILOの子どもの労働に関する禁止の条約なのか? どなたか教えてください。

アジア・太平洋戦争期に固有の特異な死のありよう

230万の軍人・軍属の戦死者のうち、その多くが戦病死者と考えられる(アジア・太平洋戦争期に関しては十分なデータなし)。特に広義の餓死者は全体の61%(藤原彰推計)、または37%(秦郁彦推計)という数量に達する。なお戦病死者の増大は日中戦争期から顕在化していた(11)。ちなみに日露戦争における戦病死者率は26.3%だが、近代軍事衛生史における退行現象として注目する必要がある。また近年の貴重な成果として多くの餓死者・戦病死者を出したインド侵攻作戦=インパール作戦の分析も重要だ(12)。

以下個別に見ていこう。
※海没死(艦船の沈没に伴う死)
約36万人、他に船員(軍属)は推定6万人

※特攻死
主力は学徒兵と少年兵で、少年兵出身の下士官もいた(13)。軍幹部の責任と非人間性も指摘される(14)。さらには昭和天皇の責任問題もある。

少年兵

少年兵

※自殺と「処置」(動けない傷病兵の殺害、自殺の強要)

※死の背景にあった<兵士の身体>
大量動員に伴う体位、体力の劣る弱兵、老兵、知的障害者の増大と彼らにとっての過酷な軍隊と戦場の問題がある。

さらに言えば<虫歯の問題>がある。虫歯や水虫などの問題は隠れた大きな問題だ。

最後に、このような悲惨な体験が旧軍人の一体感を破壊するとともに彼らの多くに軍隊や戦争に対する強い忌避感を身につけさせた。他国と違い日本の場合は旧軍人は右派勢力とはならなかった。

むしろ軍事大国化に対する歯止めとなっていた。しかし、彼らの戦争体験、戦場体験は民間人の体験と比較した場合は継承がうまくいっていない、そのことが戦場のリアルな現実に対する想像力を衰弱させている。体験の伝達・継承のためには現在と過去をつなぐ回路を設定する必要がある。『日本軍兵士』について言えば、それは「身体」で、そうした回路をいかに設定するかが課題だ。

■註
(1)「他方いくつかの問題点もあります。まず執筆が学者じゃないんですね。旧軍の方が書かれているということ(中略)参謀の歴史観だ。その視点でしか物事を見ていない」という批判があります(中略)結局、陸海軍が統一したものが出せなかった」「戦史研究座談会」(『戦史研究年報』第12号 2009年)

(2)吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』青木書店 1986年
(3)吉田裕『日本の軍隊』岩波新書 2002年
(4)吉田裕「アジア・太平洋戦争の戦場と兵士」『岩波講座アジア・太平洋戦争5』岩波書店 2006年

(5)臨時軍事費特別会計
<明治以降、原則として宣戦布告を行った戦争時の戦費を、主として処理するために設けられた特別会計。これまで、〔1〕日清(にっしん)戦争、〔2〕日露戦争、〔3〕第一次世界大戦およびシベリア出兵、〔4〕日中戦争(日華事変)および第二次大戦、の4回にわたって設けられているが、このうち、宣戦布告の相手国以外と戦争行為のあったものがシベリア出兵、宣戦布告がなかったものが日中戦争である>(日本大百科全書(ニッポニカ)小学館)この文は編集部による引用

(6)「日支戦争がなかったら、之を欲しても戦い得なかった(中略)その戦力の自身が敢えて日米戦争を冒険させるに至ったものである(中略)支那で戦争しながら、逆に戦力が殖えていったのである」伊藤正徳『帝国陸軍の最後 侵攻編』文藝春秋 1959年

(7)陸軍は、米国160万人に対して日本212万人、日米の国力(総生産)は1対12。1941年時点での太平洋の軍事バランスの図表によれば、米国太平洋艦隊のみに限れば日本海軍が数のうえで勝っていた。『タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図』原書房 
(8)栗原俊雄『戦艦大和』岩波新書 2007年

(9)「表2 メレヨン島守備隊の戦没率」陸戦学会戦史部会編『近代戦争史概説(資料集)』陸戦学会 1984年

(10)「戦争に子ども兵を使ってはならないという原則は変わらなかった」P・W・シンガー『子ども兵の戦争』日本放送出版協会 2006年

(11)「表1 中国戦線における損耗」陸戦学会戦史部会編『近代戦争史概説(資料集)』陸戦学会 1984年

(12)「1万3577人の6割に当たる人々が、作戦が中止となった7月以降に亡くなっていた。そのほとんどは『病死』であった。この中に、相当数の『餓死』が含まれているとみていいだろう」NHKスペシャル取材班『戦慄の記録インパール』岩波書店 2018年

(13)「『陸軍と海軍』によれば、戦死者の中で20歳以下の若者が占める割合は、陸軍23.5%、海軍43%であり」吉田裕・森茂樹『戦争の日本史23 アジア・太平洋戦争』吉川弘文館 2007年

(14)「チョロイ奴、特攻ニカケロ」渡辺洋二『特攻の海と空』(文春文庫 2007年)

(文責:編集部 註も)



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