平和のための学問へ―軍学共同を否定する流れをつくろう

日本学術会議のHP

日本学術会議のHP

日本学術会議は2月4日に「安全保障と学術の関係:日本学術会議の立場」と題するフォーラムを開催した。これまで1950年、1967年と「戦争を目的とする科学研究」を行わないとの声明を発したが、近年は軍事と学術が接近しているという認識の元、内外から意見聴取を行うとのことであった。

「軍事と学術の接近」とは具体的には、2015年度に防衛省が大学などの研究機関に資金提供する「安全保障技術研究推進制度」がメインだろう、さらに17年度は予算案は約110億円と20倍近くの増額となる。

さらに学術会議の大西隆会長(豊橋技術科学大学)は昨年に「自衛目的の研究は許容されるべきではないか」と私見を表明していたという(「東京新聞」2016年5月26日号)。

さて、フォーラム当日は会場の外で「軍学共同反対」の要請行動がとりくまれかなり注目度が高いものだった。報告資料がPDFでアップされているので参照できるのだが、<「自衛自存で始まった戦争への協力への反省」、また科学というものが「軍事研究」を介して「戦争災禍」を引き起こしたということ>(兵藤友博)や<防衛と軍事は違うなどの解釈をつけ加えてしまっては「堅持」にはならない/安全保障技術研究推進制度に応募しないことを明記/日本学術会議は、より広く学術研究に対する研究費のありかたを再検討し、適切なサポートを早急に実現することの方にさらなる努力をすべき>(須藤靖)という報告者の意見で尽きているような気がする。これまでの学術会議の姿勢を堅持するようにとの意見が大勢のように見える(ミサイル開発をしてきた報告者が唯一軍用を支持しているようだが)。なお学術会議としての見解は総会でまとめる予定だという。
安全保障と学術に関する検討委員会
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/anzenhosyo/anzenhosyo.html

宇宙物理学者で軍学共同に反対している池内了氏は「軍学共同に道を開かないためには文言にいささかの妥協があってはなりません」ときっぱりと明快な表現を提言している。研究者は民間と大学の違いはあっても「科学者は人間及び人間がつくりあげたものの破壊に協力すべきではない」という根本原則を強調し、学術会議は「今回のような広く意見を聞く場を何回も持って合意形成をはかってほしい」と要望している(「しんぶん赤旗」2月12日号)。

この少し前に慶應義塾大学日吉キャンパス(横浜市)で1月14日に、「慶應で軍学共同問題を考える-ペンは剣より強いのか」という集会が開かれ、慶應の高桑和巳氏、片山杜秀氏、そして池内了氏(軍学共同反対連絡会の共同代表・名古屋大学名誉教授)らが講演した。

「軍事・防衛関連研究をしない」ことを明確にすべき!:高桑和巳さん(慶應義塾大学准教授)

講演する高桑和巳さん

講演する高桑和巳さん

かつて慶應では「米資闘争」(67年)というのがあった。医学部教員の研究資金が米軍から提供を受けていて、それが学園紛争ともなった。大学は資金の返却決定をしたが、それは軍事研究だから駄目だという理由ではなく、社会情勢や世間に配慮する必要からだった。その問題は今でも同じ構造である。当時は大学の規約では「直接的軍事研究は禁止」だったが、一方で「学部の自治」と「学問研究の自由」という建前がある。今「防衛省予算」で研究費の提供を「直接軍事目的ではない」という理由で受ける可能性も否定できない。今は大学が判断できない状態にある。大学、学部、教員が問題を共有し、全体で基本の原則を確立すべきではないか。

「軍事化」ではなく信頼される大学に :池内了さん(軍学共同反対連絡会共同代表・名古屋大学名誉教授)

講演する池内了さん

講演する池内了さん

安倍内閣が安全保障という名の軍事化路線に向かい、大学や民間研究機関と共同で民生技術を防衛に使っていこうという動きがある。

船の先端に泡を出して抵抗力を減らす、というのがある。これを潜水艦に応用できる。防衛省が「ものになりそうだ」と予算化する。たとえばミサイル発射を探知。衛星に組み込んで高熱を探知してミサイルを撃ち落とせる…実際は無理なのだが。

防衛省が企業のようにインターンシップを募集して学生の取り込みを図っている。また5年前から公共政策研究科があちこちの大学にできている。そこでは安全保障政策を研究している。防衛装備品の研究開発のために100人以上の教員が招かれている。そこでイベントや講演会などをおこない。主要な研究者とつながりをつくっている。

また、軍事関連機関との協力、アメリカ軍を認知させるために米軍からの資金援助もある。赤坂にそれぞれ名前を変えて事務所を構え奨学金・留学費用なども援助している。災害支援や原発事故にも応用するということでロボットコンテストなども主催している。

防衛省は軍事研究ではない基礎研究である、と抗弁しているが、実態としては装備として応用、活用したいということだ。委託研究としてメタマテリアルという薬はステルス戦闘機に塗ってレーダー探知を免れるものだが、それを昆虫に活用する。

物理学会は「明白な軍事研究でなければオーケー」という見解だし、日本学術会議でも大西会長が「自衛のための研究であれば許容される」との立場だ。言っておきたいのは、戦争は自衛から始まっている。区別はできないということ。民生研究を軍事研究にしてゆくことで、民生が疎外されてしまう。軍事から民生になって便利になったものもあるがあくまで軍が許容したものである。

軍学共同になれば軍事研究はすべて秘密が原則、学長といえども立ち入れない。研究者が秘密漏洩罪で罰せられる危険もある。戦時中に軍事研究に従事させられていた研究者は「当時は何をしているのか分からなかった」という。

また今、物事を考えさせずに従事させられようとしている。それは科学に対する人の信頼を失わせる。軍事研究が採択された大学に抗議に行くと、それを地方紙が報じてくれる。それを読んだ市民が「あの大学がそんなことをしていたなんて…」と大学の評判が落ちる。市民はそういうことをしてほしくないわけです。市民の信頼に応えるためにも大学は軍事研究を拒否すべきです。

 
「軍事国家づくりのための学問」をふりかえる:片山杜秀さん(慶應義塾大学教授)

講演する片山杜秀さん

講演する片山杜秀さん

まず、軍学共同の歴史ですが、第一次大戦のときに米国は学術・科学界の動員をすることに成功している、それに倣えとする『国家総動員の意義』 という本が出されています。これは陸軍が出したものです。

慶應理工学部の成り立ちで、理工学部が国家に奉仕することで生き残りを図ったと見れます。また池田成彬。小林一三など政治と学校を結びつける財界代表を生み出してきました。1935年には軍事体制の国家形成のため学術界が統制される「教学刷新評議会」が結成されて、国家総動員づくりを担うようになります。

大熊信行は海軍省の嘱託として、国家としての科学を成立させるため『国家科学への道』など書き連ねています。科学者が国家に協力することにより国民の統合・形成に資する、ということで、当時は発明家のブームというのも起きていました。

また文部大臣が関与した『文教維新の綱領』という本では、国家に奉仕する学産体制をいかにつくるか、ということで私学特有の自由主義的・野党的な風潮を批判して国家に統制・奉仕させるには、助成金をカットするなどすれば国への恭順を示すであろう、という考察をしています。当時の学者たちは、冷静な科学的見方をする一方で他人事のように「竹槍で勝てる」と荒唐無稽な精神論をぶっていました。おそらく虚無感からくる刹那的思考なのでは、現在にもあてはまるものでしょう。


講演のあとの質疑では、「研究者は甘く考えている」「科学者は今までのように自分の研究ができると思っているが、一旦お金が貰えるとやめられなくなる」「自分の行為について立ち返って考えることが〝教養〟なのではないか」「文科省から防衛省に予算が流れている、ほんらいの予算のあり方が間違っている」 など多様に討議された。

池内氏は「巨象に対して蟻が対立しているようなものと、言われる。なんとしても伝えていくしかない。言い続けてゆくことが大事」、高桑氏は「規約を明記するなど具体的な成果を残したい」と語った。

この集会は慶應義塾労働組合主催で素晴らしいのだが、このような集会を各大学で行うことはできないだろうか。たとえば全国の大学で連携し継続的にとりくみがされれば大学だけの話では収まらない事態になるだろう。そんなことを考えた。(本田一美)