徴用工の手記から見える植民地朝鮮の労働者

<映像’19 「ある徴用工の手記より ~日韓の間に何が起きているのか~」>MBS(毎日放送)HPより 
https://www.mbs.jp/eizou/backno/190728.shtml

MBS(毎日放送)のドキュメンタリー番組 <映像’19 「ある徴用工の手記より ~日韓の間に何が起きているのか~」が2019年7月28日(日)に放送された。番組では、現在の韓国徴用工問題=日韓の亀裂状態のもとを辿るかたちで、韓国徴用工の手記を映像化し、当時の徴用工の暮らし・思いを伝えている。また、背後には何十万という数の徴用工たちがいて、中には強制的な連行や危険な労働環境をとおして、命を落としたり、心身に傷を負った人もいたのだ、と知る。ごく簡単に紹介する。

鄭忠海(チョン・チュンヘ)『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版 1991年)映像’19より

『ある徴用工の手記より―日韓の間に何が起きているのか』

鄭忠海(チョン・チュンヘ)という青年が徴用され広島の軍需工場で働かされた体験を綴った本を手がかりに、朝鮮人労働者の動員の過程を解き明かし、現在の韓国徴用工問題までを振り返る。

朝鮮人の労働者はどのようにして日本国内に動員されるようになったのか。1910年以降増加傾向にあった朝鮮人の内地への移動が、国内の治安上の問題を起こしているとして、1934年の政府の閣議決定の内容では、むしろ抑制しようとしていたことが確認できた。

1937年に日中戦争がはじまり国内の労働力が不足しだすと、動員政策の変更を迫られて1939年7月に国家総動員法に基づく「国民徴用令」が施行された。その年の動員計画では、学校卒業予定の男女や農村の人々を徴用し軍需工場などで働かせることが決まった。

植民地朝鮮人については動員目標を8万5千人とした。ただ徴用令は出されず、募集が1942年2月まで、官のあっせんが1944年8月までで、1944年9月になってから徴用令による動員がなされた。

ただ手法の違いはあっても、時として暴力や脅迫に伴うものがあったと、あきらかになっている。たとえば、『朝鮮人強制連行調査の記録』(柏書房)には多くの証言が掲載されている。

1942年7月動員された証言 映像’19 より

日本人警官2名と面事務所の役人が来て連行されていった。「既に15名の青年が連行されていました。行きたくないと拒否すると、おまえが行かなかれば親兄弟を皆殺しにするぞと、脅しました」(1942年7月動員)

日本人の巡査が、用があるから来いと呼びつけた。「留置場に放り込まれた。翌日、トラックで全羅南道の冷水港に連れていかれ船に乗せられ、ようやく手錠を外された」(1943年7月動員)

外務省の外交史料館の資料にも朝鮮人が無理強いされていた様子が描かれていた。「出動ハ全ク拉致同様ナ状態デアル。ソレハ、然シ、事前ニ於イテソレヲシラセレバ、彼ラハ逃亡スルカラデアル。ソコデ夜襲、誘出、各種ノ方策ヲ講ジテ、人質的略奪拉致ノ事例ガ多クナルノデアル」(日本の内務省嘱託職員の朝鮮出張報告書 1944年7月)

「朝鮮人に自己決定権がなかったこと。労働力を日本の戦争に使ってしまったのが大きな問題」(外村大東大教授)

1944年になると、閣議決定で朝鮮人を29万人動員する計画を立てた。これは限度を越える負担となった。

*鄭忠海の手記
「突然私にも徴用令状が来た。いま日本全土で空襲がはじまり、焦土作戦だという。わざわざ爆撃を受けにいくようなものであり、死に場所を求めてくことになる」―鄭忠海『朝鮮人徴用工の手記』(河合出版 1991年)

鄭忠海は25歳で徴用され、ソウルから釜山へ向かい船で博多に向かった。「もしかしたらこれが最後の故郷の見納めかと思い、同胞たちは先を争って船の上甲板に上がった。ある物は叫び、涙を流していた」

戦前の東洋工業(映像’19より)


彼らの行き先は広島の東洋工業(現マツダ)だと知らされた。到着すると早速訓示があり、かつては三輪オートバイを製作していたが、最近は99式小銃を作り、重要な軍需工場となっている、各人はそれぞれの工場の配置になると伝えられた。

鄭忠海(チョン・チュンヘ)の手記 映像’19 より

1945年3月に朝鮮人徴用工のリーダーとなるべく鄭 忠海は奈良の「西部国民勤労訓練所」で数ヶ月の訓練を受けることになる(皮肉なことに現在、航空自衛隊の基地になっている)。

広島に戻った鄭 忠海は8月6日の原爆の様子を克明に記憶していた。また、ラジオの前で天皇の降伏の放送を聴いた時には、内心飛び上がるように喜んだが、今のこの場所では喜ぶこともできず、だからといって悲しむこともできない微妙な立場だった、と吐露している。

実は鄭 忠海の子息が日本で暮らしている、という。その後の暮らしはどうだったのだろう。

韓国に戻っても苦労続きで、日本人が経営していた銭湯で働いて、朝鮮戦争が始まると兵隊に連れて行かれたという。「私が覚えていたのは父の背中の荷物に乗せてもらったこと、その上を砲弾が飛んでいたのを記憶している」

広島の病院へ療養に来ていた鄭忠海(右) 映像'19より

広島の病院へ療養に来ていた鄭忠海(右) 映像’19より


鄭忠海は朝鮮人被爆者として、戦後もたびたび広島の病院へ療養に訪れていて2003年に87歳に亡くなった。

日韓条約では植民地支配責任については日韓で意見が折り合わず、経済協力として決着した。1965年の日韓請求権協定は過去の克服を目指すものではなかった、と研究者の間では評価されている。

徴用工問題は2013年にソウル高裁で日本製鉄に慰謝料を支払う判決があり、2018年の韓国最高裁で、慰謝料請求権は残っているとして、徴用工原告と遺族への賠償が判決として出された。

軍需会社法(1943年)によれば労働者を徴用とすることが可能だという(当時の日本製鉄も軍需会社として指定)。実態として募集や官あっせんであっても徴用工として認められるという。(外村大東大教授)

徴用工訴訟の李春植(イ・チュンシュク)さん(95)

徴用工訴訟の李春植(イ・チュンシュク)さん(95) 映像’19 より


韓国では今、徴用工たちの韓国政府の責任を追求する裁判もおこなわれているという。

メディア、企業も含めて日本人の対応はどうなのか? 「韓国社会の反応がレベルが低いかのように見ている。かつて植民地支配の朝鮮を蔑視していたが、今でもそれを再現しているかのようだ」(太田修同志社大教授)

以上簡単に内容を紹介したが、徴用工だった方の手記を糸口にしたすぐれたドキュメンタリーだ。番組のなかで、かなり細かい記録の手記を書かれた人がいる、と翻訳者の方も話されていたが、その具体的な記述や感想が当時の状況を伝えていて活きている。

この問題は実際の当事者が尊厳を取り返すために告発している、ということもあるのだが、被害を受けた人々の当時の実態を知ることが重要だとあらためて思い知らされた。問いかけるのは日本の朝鮮の植民地支配の責任なのである。いまだにそのことに頬かむりしている日本政府と社会の恥ずべき姿があらわなっている。

(編集部)

徴用工裁判の弁護士 映像'19より

徴用工裁判の弁護士 映像’19より