映画「スノーデン」が問いかけるもの

映画「スノーデン」公式サイト・画面

映画「スノーデン」公式サイト

新しく米国大統領になったトランプが「オバマに盗聴されていた」とツィッターで主張して大騒ぎとなった。トランプは確たる証拠があって言い放ったわけではなくいつもの暴論らしい。

「トランプ氏主張の盗聴疑惑、現時点で証拠ない=米下院情報委員長」(ネット版ロイター 2017年 03月 8日号)
 http://jp.reuters.com/article/nunes-wiretapping-obama-idJPKBN16F07F

どうやら彼特有のデマ・放言のたぐいで落着しそうだが、NSA(アメリカ国家安全保障局)という組織が外国のみならず自国の国民を非合法に監視していた事実を考えると、単なる嘘話では片付けられない。その可能性はあった、しかし確証を得るには手段がない。問題は組織外にある人間がその情報や証拠を確認し、チェックする方法がないことだ。NSAの活動は法的に制限されているという話も聞くが、それを信じることは難しい。2013年にエドワード・スノーデン(元CIA職員)は米国が自国民の電話、携帯電話、メール、SNSなどの通信傍受していて他国に対しても同様に行っていたことを暴露した。

オリバー・ストーン監督の映画『スノーデン』(2016年)は、どこにでもいる平凡な青年がそのNSAで諜報活動に携わってきたが葛藤と内省の末に内部告発するまでを描いたものだ。

映画のなかで日本にいった話が挿入される。彼はデルからの出向社員として2009年から3年ほど日本の横田基地で仕事をしていた。そこでは日本の自衛隊に個人データの提供を申し出たが断られたという話がでてくる。それは日本政府が個人のデータ収集をしていないからなのだが(それは一部にはあるのではと思う)…。そして、日本の基幹のネットワーク:送電網やダム、交通機関などインフラ施設にマルウェアというプログラムを仕掛けていたという本人の告白場面がある。「日本が同盟国でなくなる日が来たら…」という言葉とともに日本列島の南から順に街全体の灯が消えていき、すべて真っ暗になるというショッキングな映像がある。

サイバー戦争といわれるネットワークコンピューター等を破壊する攻撃は、他国に対してだけではなく同盟国といわれる国であっても容赦なく射程内に置かれていることを示すシーンだが、当の日本政府と日本人たちはどの程度認識しているのだろうか。

スノーデンはややパソコンおたくの傾向があるにせよ、いわゆる愛国者でどちらかというとリバタリアンで右翼思想の持ち主だ。それが何故暴露しなければならないと思い詰めたのか。もともとピュアであり、それゆえ多分にネットの自由な雰囲気を体験し堪能していたからではないだろうか。

映画では、それらしきエピソードとしてスノーデンが勤務する基地のモニターに中東のとある街角が映し出されるが、ドローンによる攻撃で一瞬にして破壊され噴煙につつまれる。それはテロリストのアジトであるという。まるでゲームのような画面だが、紛れもなく殺害行為であり、戦闘行為が日常化し、大義なき戦争状態(テロリストを抹殺するという美名のもとに、ピンポイントで攻撃しているというが、不確かな情報もあり巻き添え殺人も多い)が続いている。スノーデンはそれを目の当たりにしてショックを受けるのだが、一方同僚たちはこともなげにジョークのひとつにしてしまう。安易に類推することは避けたいが、戦時中の日本でも家庭に帰ればよき父親で子煩悩でもある男性が、ひとたび日本軍の兵士として過酷な戦場に置かれれば、躊躇なく中国大陸の民衆達に横暴なふるまいをする。異常な状態に嵌められた者がやがてそれを通常のこととして受け入れて、麻痺してしまうことは洋の東西を問わずあることだが、これを受託し没入するか否かが問われるのだろうと思う。事実、中国人捕虜虐殺の軍命を拒否した兵隊もいたのである(『歌集 小さな抵抗』渡部良三 岩波現代文庫 2011年)。

「テロとの闘い」「テロ対策」が錦の御旗とされている。NSAは「国を守るため」に情報の収集・監視を正当化し拡大してきた。最初にスノーデンに会ったジャーナリストのグリーンウォルドは「どう考えてもテロや国家安全保障とは関係がない。ブラジル石油業界の巨人<ペトロブラス>の通信を傍受したり、経済会議の交渉の場をスパイしたり、民主的に選ばれた同盟国の指導者たちをターゲットにしたり、アメリカ全市民のコミューケーション記録を集めたり-そういったことはテロリズムと何の関係もない」(『暴露』グレン・グリーンウォルド 新潮社 2014年)と、NSAが情報収集・監視活動の理由にしている〝テロ防止〟が口実にすぎないと断じている。

そしてNSAの大量監視がテロ計画を阻止してきたという主張も、ある連邦判事の発言では「NSAの大量メタデータ収集によって差し迫ったテロ攻撃を阻止できたという実例を司法省はひとつも挙げられていない」(前掲書)など国防になんら貢献していない、という複数の声がある。

テロの脅威を利用するということでは日本でも共謀罪を「テロ等準備罪」と名称を変えての法案が国会に提出予定されているが、これも条文に最初はテロの文字のないものであった(『「共謀罪」法案、全容明らかに 条文に「テロ」表記なし』朝日新聞 2017年2月28日号 )。これなどは明らかにテロという言葉を悪用する類型だろう。そして先立つものとして盗聴法、秘密保護法など監視・軍事社会化への地ならし的法案が成立していったが、今度の共謀罪では「金田勝年法相は二十三日、衆院予算委員会の分科会で、犯罪を合意(共謀)する手段を限定しない考えを明らかにした。会議などでメンバーが対面して行う合意だけでなく、電話やメール、LINE(ライン)で合意が成立する可能性を認めた」(東京新聞 2017年2月24日号)ので、警察の市民監視がSNSなどインターネット全般に及ぶのではと危惧されている。

現代社会でメールやフェイスブックなどのSNS、ブログ・掲示板などネットや携帯電話を利用しないことは考えられないくらい日常化している。消費と生活に密着しているのだが、たとえばアマゾンで買い物をしたら「これはどうですか?」と似た傾向の商品を推してくる、便利ではあるが心の内を読まれているようでゾッとする。これは大きなお世話なのだが、いっぽうで欲望が生まれて消費を促進する。また必要以上にセキュリティを欲求する傾向もあり、ちょっとした繁華街やマンションの玄関などに監視カメラが備えられている。利便性に慣れてしまった今、先端技術と同時にセキュリティを確保するにはプライバシーや個人情報を犠牲にしなければならないのか? 安心・安全を求める気持ちは分かるが何故それが必要とされるのかについて、考えてみたほうがいいだろう。結局のところ資本の論理に踊らされて挙句の社会の分断、格差拡大によるストレスや矛盾なのではないのか? 疑問がつきまとう。

これらの環境を一挙に変えることは不可能だが、まずは流されないこと、制度を問い直すこと、一方的に同調しないことは必須だろう。ほんらいは国民が国家権力を監視しなければならないのだが、国民が政府の行動を把握できず、壁に遮られている(文書を求めても文書を破棄したと、平然と開き直られる!)。この逆転した関係を問い直すことから始めよう。(本田一美)

映画「スノーデン」公式サイト
http://www.snowden-movie.jp/

エドワード・スノーデン:ある理想主義者の幻滅 « WIRED.jp
雑誌「ワイアード」によるインタビュー
http://wired.jp/special/2017/edward-snowden/