吉田裕さん「自分史の中の軍事史研究」

 2月1日の昼下がり、一橋大学・兼松講堂で吉田裕さん退官講演が行われました。レジュメは500部を用意したとのことですが、600人以上が来場、2階席へとの案内アナウンスが響きます。

 開会挨拶は中野聡さんで、吉田裕さんの研究業績を4点の視点にまとめて紹介。

1 昭和天皇の研究
2 戦争責任の研究
3 戦争観の研究
4 戦争(戦場)のリアルの研究

 さらに吉田さんは、歴史教科書で「侵略」を「進出」に言い換える1982年の文科省の検定のありように、歴史研究者としての知見を活かさなければとの責務を感じられと紹介。その思いはやがて1992年の「戦争責任資料センター」の設立参加、紀要『戦争責任研究』の編集長に携わることになったことにも言及された。 

 壇上には、これまでの私では見たこともないほどの大きな生花が飾られ、やがて吉田さんの話が始まりました。

吉田裕さん一橋大学退官講演 『自分史の中の軍事史研究』

 彼は埼玉・入間の出身。小学校までの幼少期は軍事オタクだったようで、その時の図画や作文を披露し苦笑。中学では軍事雑誌『丸』の愛読者で、プアモデル造りに熱中したことも。

 やがてベトナム戦争に巻き込まれます。1968年、サイゴン市街地でのベトコン公開処刑=銃殺される写真に出逢い、それに大きな衝撃を受け、戦争の残酷さ不条理さに怒りを覚えたそうです。 

 男子校の川越高校では、日本史の授業で先生を批判して物議をかもしたこと。他方、世界史の先生は、熱心に毎回ガリ版刷りの資料を添えての授業に大きな影響を受けた、と回想されていました。この世界史教師の影響で、その後、歴史教師になった友人たちも出たとのこと。

 1973年、教育大史学科に進学し軍事史を研究、市ヶ谷の自衛隊・戦史室に通ったそうです。当時、防衛庁戦史室に民間人が入ることはなく、東大の遠藤氏と吉田さんの二人だけが『陸軍省大日記』を読むなど、最初の民間人学生だったと語っていました。

 やがて研究者に憧れることになり、もう少し勉強したいという気持ちから、1977年一橋大学の大学院に進み、1983年一橋大学教員、藤原彰先生の退官後1985年、教授に。

 研究者となり、1982年の教科書検定の国際問題化=アジア諸国と日本との歴史認識の落差にショックを受け、日本軍による戦争犯罪の研究が立ち遅れていることを実感し、戦争犯罪研究に取り組むようになった、とのこと。1984年に発足した「南京事件調査研究会」の事務局長に、南京事件関係の史料を調べる中で、連隊史などの部隊史、兵士の回想や従軍日記などの歴史史料としての重要性に気付いたとのこと。

 吉田さんはこの日、言及されませんでしたが、吉田さんは戦争責任資料センターの設立メンバーで、紀要『戦争責任研究』の編集長だったことを、付記しておきます。

 また1989年の昭和天皇死去で、日本社会の重苦しい「自粛」の強要、「礼賛」の押し付けに反発から、昭和天皇研究、戦争責任に関心を寄せるようになった、とのこと。

 藤原彰さん、吉田さんの史料や蔵書は2万点にも及ぶとの事。これら史料を散逸させず引き受けてくれる大学・施設は国内ではなかったそうで、韓国の大学に一括寄贈されるとのことです。

 講演後、降壇された吉田さんはご家族のもとに駆け寄り、さらに吉田さんに賛辞を述べる会場からの参加者が行列が長く伸びます。演壇に飾られた生花は希望する参加者に分けられました。

 知り合いの先生や新聞記者の方々に会釈し、報告者も会場を後にしました。

『戦争の不条理に対する怒りを熟成させ、すんだ怒りに転化させることが研究者の仕事』との吉田先生の言葉を噛みしめながら帰途につきました。

(宿六)