櫛田民蔵というマルクス研究者の生涯

櫛田民蔵 マルクス探求の生涯(社会評論社)書影

社会評論社から石河康国「櫛田民蔵 マルクス探求の生涯」(2021年4月2日)が発売されます。

櫛田民蔵(一八八五~一九三四)は、日本におけるマルクス経済学の開拓者である。その史的唯物論の探究は河上肇を瞠目させ、大内兵衛をして業績を後世に伝えさせた。

ブルジョア経済学との論争の火ぶたを切ったのは民蔵である。小泉信三など最先端の面々を、ほとんど一人で相手取って価値論争を展開した。戦線は河上肇の「価値人類犠牲説批判」から、地代・小作料をめぐって野呂栄太郎らへと拡大した。(版元ドットコム)

著者である石河康国さんの文書を末尾に掲載します。ぜひ本をお手にとってみてください。

石河康国 (イシコヤスクニ) :著書に『労農派マルクス主義 理論・ひと・歴史』(上・下巻)『マルクスを日本で育てた人 評伝・山川均』(1・2巻)『向坂逸郎評伝』(上・下巻)など多数ある。
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「大正デモクラシー」という「民衆」が政治に関与してゆく運動があり、日本が民主主義へと政治的な変革を遂げた時期に、福島県いわき市の小川町で櫛田民蔵は生まれた(1885年)、マルクス経済学研究の先駆者の一人として、多くの功績を残し、社会運動家らに思想的影響を与えた。磐城中学校、仙台、東北学院から東京で東京外国語学校(現・東京外語大学)・京都帝国大学、東京帝国大学大学院へと進む。

京大時代、マルクス経済学の第一人者、河上肇に師事したことから同研究を開始。東大大学院修了後、大阪朝日新聞社の論説記者になるが、わずか1年で退職した。次いで、同志社大学教授、東京帝国大学講師の職に就くが、運営などを不服として、いずれも1年ほどで辞任。

民蔵の長男、克巳氏は父の性格について「直情で気性が激しい」と、述べており、俗世間に構わず、学問を志向する民蔵の強烈な個性がうかがえる。研究に没頭し、1934年、自宅で執筆中、クモ膜下出血に倒れた。享年49歳。

大原社会問題研究所の研究生となり、社会主義文献調査のためにドイツへ派遣。更に仏やソ連にも出向いた。 帰国後、マルクス経済学の研究に没頭し、翻訳活動にも取り組んだ。恩師の河上肇はマルクス主義経済学の先覚者であったが、 弟子の民蔵は「河上の社会主義は人道主義的」と批判し、世間を驚かせた。 しかし、河上肇が官憲に追われた時に自宅にかくまうなど、師を思う心と学問は別と割り切っていた。(「うつくしま電子事典」)

 もしかしたら、伴侶である櫛田ふきのほうが有名かもしれない。櫛田ふきは外語大教授の山口小太郎の娘で、父の弟子であった櫛田民蔵と1917年に結婚した。民蔵が亡くなり35歳で仕立物や保険の外交をしながら二人の子供を育てた。作家の宮本百合子に励まされたことから、婦人民主クラブの編集長や新日本婦人の会など女性・平和運動に活躍し、101歳まで活動を続けた。

(編集部)
以下のサイトを参考にしました。
「-群像- いわきの誉れ「経済学者 櫛民」(「月刊りぃ~ど」) 
http://www.iwaki-j.net/wread/2021/03/12/post-1049/


■自著を語る

櫛田民蔵と言っても知っている方は稀でしょう。福島県いわき地方の片田舎から上京し苦学して転々と職を変え、最後は大原社会問題研究所に落ち着くという、珍しい経歴の『学者」です。マルクス・エンゲルスの入手できる数少ない文献を徹底的に読み込み、テキストと格闘するように内容をとらえていきました。そしてマルクス経済学、とりわけ価値論については当時としてはまっとうな理解に達し、小泉信三はじめブルジョア経済者と単身わたりあい、日本の経済学のレベルをひきあげました。新メガはじめ豊富な文献に恵まれ刺激的なマルクス研究が花咲く昨今とは一味違うマルクス受容の姿も面白いのではと思って筆を執った次第です。ご照覧ください。
石河康国