53年前の米軍機事故を追想し、現在のオスプレイに恐怖する

町田の商店街に米軍機が墜落して53年になる。

1964年4月5日、米軍機は当時の国鉄原町田駅(現JR町田駅)近くの商店街に墜落。生後9カ月の乳児を含む4人が死亡し、32人が重軽傷を負う大惨事となった。

町田市で発生した米軍機墜落事故について
https://www.city.machida.tokyo.jp/kurashi/kankyo/minomawari/souon/joukyou/tsuiraku50.html

これについては事故から50年となる節目の2014年に大きな集会が開かれ、市民有志で慰霊と祈念のための像をつくる計画が発表され進行していた。像を制作する実行委員会としては事故現場近くに設置してもらうように市への寄贈を予定していたようだが、町田市としては受け入れには否定的だという。

町田・米軍機墜落事故 追悼の像、宙に浮く 市が設置に消極的
市への寄贈を前提としていたが、市は固辞する意向を伝えてきたという。現場跡地の駐車場の所有者からも、「設置は困る」との答えが返ってきた。

市企画政策課は取材に「事故を二度と起こしてはならないという思いは市も同じだが、遺族や被害者、周辺住民には、もう忘れたいという人もいるだろう。像を置くとなると、意見の集約がなければ難しい」と現段階での受け取りには否定的だ。(東京新聞 2017年4月13日 夕刊)

この話を聞いて、東京都が東京大空襲についての記憶や記録を残すことに冷淡であることを想起した。理由については米国を刺激したくない、被害者の補償問題、日本政府の責任問題、国家の威信、軍事忌避など複合的であろうと推察できるが、沖縄や広島・長崎との落差を感じざるを得ない。

軍事に絡んだマイナスイメージは消却したいのだろうが、日々ジェット機を飛ばして大和市や厚木市などに爆音を押しつけている現状では、忘れようとしても忘れることはできないだろう。

4月5日「爆音と墜落のない空を」と題された集会が町田市民文学館ことばらんど大会議室で開かれた。厚木基地爆音防止期成同盟町田支部・第四次厚木爆音訴訟原告団町田支部の共催で、最初に1964年の町田の商店街と戦闘機墜落事故の映像が上映された。

沖縄・嘉手納に飛来したオスプレイ(

沖縄・嘉手納に飛来したオスプレイ(webリムピースより)

続いて頼和太郎さん(リムピース編集長)が講演した。

頼さんは昨年の12月13日、沖縄県名護市沖に墜落したオスプレイの機体の現場の跡を取材して写真を見せながら説明をしてくれた。

まず、米軍は墜落したオスプレイの残骸が完全に回収されていない、なのにオスプレイの飛行を再開した。原因を調べてもこれは事故の防止に役立たないと認識したから。

1.オスプレイはなぜ危険なのか?

機体構造そのものに原因がある。ヘリにしては羽根が短く、飛行機にしては長すぎる。空中空輸というのも危険である。今回の事故は給油の後に外したホースがプロペラにあたりプロペラを破壊した、というのが米軍と日本政府の説明だが、そもそもプロペラにあたりやすい構造だ。

もうひとつ、後方乱気流の影響をオスプレイが受けやすい。JAXA(宇宙航空研究開発機構)の研究報告にある。

オスプレイの空中給油も危険である。それは基本設計がもたらすもので修正不能。危険性を回避するには空中給油をやめるしかないが、やめれば飛行距離が下がる。能力が下がる。だから危険を覚悟して空中給油を行わざるを得ない。

2.夜間飛行訓練の危険性
事故機のオスプレイに空中給油していたのは、空軍特殊部隊のMC130。これは夜間の潜入支援を専門としている。はじめから夜間の一連の作戦をする目的だった。普天間のオスプレイが、昼間の訓練から夜間の飛行訓練に移行しているのではないか。すると危険度は増し事故を起こす可能性高くなる。

3.事故の言い訳と再発の可能性
あれだけ壊れた機体を見ながら、墜落ではなく不時着だという。軍隊は安全よりも任務遂行を重視する。安全が確認されるまで飛ばないのではなく、落ちる可能性があっても飛ばす。飛ばして任務を達成する方を軍隊は選ぶ。民間機なら飛べないところを軍用だから目をつぶって飛ばしてしまう

4.横田基地へのCV22配備計画

配備されれば、今横田にいるC130と同じように横浜上空から相模川沿いに周回飛行を行うだろうし、夜中に群馬県の山中を低空飛行して夜明け前に横田に戻ってくることもあるだろう。また日米共同訓練が進んでいる。

最後に、オスプレイは半分の事故率という説明だった。海兵隊の事故率は減っているがオスプレイの事故率は増えている。工業製品としておかしなもので、欠陥商品であり、使ってはいけない。

この後、第五次厚木爆音訴訟の説明と現状報告があり、最後に「平和像建立実行委員会」から「平和像」設置についての活動紹介があった。 (本田一美)

平和像

集会では平和像が飾られていた