時代の陰を告発し、戦死者が鉄で蘇る―福島菊次郎と武田美通の展示

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11月4、5日に恵泉女学園大学の学園祭に合わせて「花と平和のミュージアム」という付属施設で福島菊次郎の写真展と武田美通の造形展が開催された。福島菊次郎さんは報道写真家として戦後の日本社会の陰を記録し続け、2015年、94歳で亡くなる直前まで脱原発集会などの取材をしていた。いっぽう武田美通(たけだよしとう)さんは、筆者は寡聞にして知らなかったが、日本兵たちの凄絶な姿を鉄で表現している。実際に作られた造形を見て、その迫力と迫真的な表現に圧倒された。

福島菊次郎さんの写真は「ピカドン」と題された組写真で、ある被爆者の家庭を15年間取材して、1961年に写真集として出版したものだ。福島さんは民生委員として、救援物資集めの目的で写真展を開くため、生活困窮者の実態を写しはじめたのが写真撮影の契機だったという。そのことを通じて次第に戦争被害の実態を知り、被爆者や戦争孤児の撮影をしていったのだ。

「ピカドン」という名称から原爆の直接的なイメージが湧くが、写真として写されたものは被爆者たちの生活であり、被爆者たちのたたずまいの現実である。被爆者たちへの現状の「援護法」が実効性がなく、原爆症に苦しむ人々を撮影して、より包括的な「援護法」を求める被爆者たちの声を届けようとしたのだろう。

武田美道さんは、1935年北海道小樽市生まれ。皇国の少年として育ち、国民学校(小学校)1年のとき、太平洋戦争に突入。早稲田大学で社会学を学び、日経新聞の記者を経てテレビ東京勤務。60年安保の取材からジャーナリスト活動開始。この間、少年期からのテーマ「戦争とは」「国家とは」「軍隊とは」を問い続け、アメリカ海兵隊や自衛隊などの取材に力をいれた。

60歳を前に造形作家の道に転身。2004年より作品展を開催する。「戦死者たちからのメッセージ」作品群の制作に後半生を注ぎ、2010年には丸木美術館にて個展を開催した。2016年5月急逝。

「戦死者たちからのメッセージ」とは文字通り、しゃれこうべの日本兵たちの様々な情景の一連の作品群で、作者亡き後は、鑑賞者たちでつくった<広める会>が管理して、大学のミュージアムに預かってもらっているという。

鉄でできた骨の日本兵たちの今際の際であろう姿態や、まさに死者が蘇ってきてうごめいているような作品群は、悪夢のようでもあり、戦場で誰にも看取られことなく死を迎えざるを得ない無念さが伝わってくる。

武田さんは、当初はシンプルな題材で鳥や花などをつくっていたらしいが、日本が「戦争する国」へと向かう兆しを感じて、それまでの作品づくりを問い返し、以来15年に渡って「戦死者たちのメッセージ」制作にとりくんだという。

福島さんの写真展は戦後社会のあり方を問うものだ。武田さんの作品展は戦死者を弔うものでもあるが、その後の日本の戦争についてどう決着をちつけたのか、先の戦争と戦後のあり方、捉えかたを再考させるものだろう。二つの展示はいささか重すぎるかもしれないが、見ておくべきものだろう。残念なのは展示場所が手狭だったことだ。福島さんの写真パネルは通路入り口だけの展示だし、武田さんの展示もあまり広いとはいえない場所に所狭しといった風情なので、もう少しゆったりとした場所で鑑賞したかった。

なお武田さんの作品は川崎市平和館「ことばを超えて」という企画展で、12月10日(日)まで展示されているので、時間があればぜひご覧になっていただきたい。
(本田一美)
川崎市平和館企画展「写真・造形展 ことばを超えて」開催↓
http://www.city.kawasaki.jp/250/page/0000091806.html

福島菊次郎「ピカドン」展

福島菊次郎「ピカドン」展。ヒロシマの情景


福島菊次郎「ピカドン」展。被爆者たちの生活を記録する

福島菊次郎「ピカドン」展。被爆者たちの生活を記録する

武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「帰還兵が問う」2007年

武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「帰還兵が問う」2007年


武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「処刑されるBC級戦犯」2013年

武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「処刑されるBC級戦犯」2013年


武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「大き骨は」2012年(正田篠枝『さんげ』より)

武田美通「戦死者たちのメッセージ」展。「大き骨は」2012年(正田篠枝『さんげ』より)

武田さんと造形作品を紹介した新聞記事

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