「私の弟は目の前で投げられて、銃剣で…!」―2016年 アジア・フォーラム横浜証言集会
太平洋戦争の開戦というと真珠湾攻撃が想起されるが実際にはそれに先立ってマレー半島のコタバルなどに上陸して対英作戦を展開していた(『第二次世界大戦(二)-真珠湾前後-』編集:軍事史学会 1992年) 。これについては今だにマスコミなどでは採り上げられない。高嶋伸欽さんによれば教科書の記述はかなり改善されているという。
アジア・フォーラム横浜は毎年この時期に証言集会を開いているそれはどのような観点なのだろうか。「日本軍はマレー半島への侵略を開始。その後およそ4年の間、東南アジアの人々は日本軍の統治下に置かれ、各地で横暴な軍政や住民虐殺など苦難に満ちた日々を過ごしました。…戦争体験をお聞きする集会を通じて、ささやかですが、いまだ知られざる事実を明らかにし、戦争責任を考え、真の平和を実現するための活動を続けていきたいと考えています」とHPにあった。証言集会は2016年に23回を数える。12月11日(日)かながわ県民センターに200人以上が集まり、侵略の証言に耳をかたむけた。集会での証言と発言は以下の通り。(本田一美)
証言:鄭 来さん(日本軍による被害者・マレーシア)
マレーシア・ゴム園で暮らしていました。その事件はハッキリ憶えています。その日の朝8時にリョウ君が日本兵を案内してきました。みなさん心配いりません。身分を確認するだけですから、といっていました。宿舎に戻ってくださいと。
日本人の担当者はいろいろ話していましたが、理解できませんでした。私達数名の仲間たちは、宿舎の裏側の丘に連れて行かれて一列に並ばされたのです。いきなり前に立っていた日本兵が、まだ幼い下の弟を放り投げて銃剣で串刺しにしたのです。内蔵がはみ出していました。
私は後ろから銃剣で刺されました。2、3回脇に入りました。私は倒れました。その後日本兵はそばにあったゴムの木の葉で倒れた死体を隠していました。
私が気づいた時は危ないと思い、兵士が去るまで黙っていました。すぐ下の弟も刺されていましたが、なんとか生きていてました。ここは危ないと思い彼の手をひいて逃げました。不思議と痛みは感じませんでした。
ゴム園の向かいにいるおじいさんに助けを求めて、隠れました。ゴム園の周囲は死体が転がっていてひどい匂いがしました。一週間くらいして薬もないので、自転車で近くの街まで移動しました。
おじさんのとこに行って山のなかに隠れていましたが、弟の姿が見えないので聞いたところ、食べるものがないので別なところへやった、と言われました。大変悲しいことです。
村に5人の日本兵が来ました。村長には可愛い娘がいましたがその時に強姦されて殺されたのです。このことはメンツの問題もあり関係者が生きていたときには話せませんでした。日本兵は華人・中国人を狙って殺していたのです。その頃の中華系の娘たちは、みんな男装したり目立たないように変装していたのです。
当時の日本兵はムスリムの人たちに豚の耳を食べるよう強要したり、ビンタを張ったりと傍若無人の振る舞いでした。学校は日本兵の駐在場所となりました。そこで虐待も行われました。人間を横に這わせて水を沢山飲ませます。水が体のいたる所から出てきました。この目で見ました。罪のない人たちがスパイの疑いをかけられて、指先の間を割いたりひどい拷問を受けました。こういった虐殺の場所には追悼碑が建てられていて、地域にはたくさんあります。
発言:翁清玉さん(マレーシア中華大会堂・第二次大戦歴史研究会主席)
背景について話したいです。1941年日本軍はマレー・シンガポールを支配しました。そこで華人は虐待を受けました。華僑・商人たちは非道な扱いを受けました。日本の侵略軍は抗日人士・共産党の人々を殺害したのです。
日本軍は検閲をして、田舎の方で集団虐殺をおこないました。戦犯の証言により5万人の華僑を殺すという計画がわかりました。1942年に憲兵隊は華僑の有力者に会い、日本軍に協力するという契約書を書かせました。
それは華僑は日本軍に忠誠を誓い、さらに5万ドルを支払わなければならないというものです。華僑の組織ではみんなから8%のお金を徴収しようということになりました。しかしうまく集まらずに銀行から借りることになりました。
私達の要求は日本政府に対して謝罪してほしい、徴収されたお金を返してほしい、軍票の交換をしてほしいということです。
(集会での発言)