在日元BC級戦犯「良識ある日本国民の皆さんにお願いする」

在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さん

在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さん(You Tubeより)


東京裁判(極東軍事裁判)ではA級戦犯とBC級戦犯が裁かれたが、具体的には戦争犯罪を裁いたもので、A級戦犯(主要戦犯)は「平和に対する罪」で、主として政府や軍の指導者が対象となった。もう一つは「通例の戦争犯罪」としてB級戦犯、「人道に対する罪」がC級戦犯として裁かれた。これがBC級戦犯裁判だ。

BC級戦犯裁判では全体で約5700人(死刑934人)が裁かれたが、朝鮮人は148人(死刑23人)、台湾人は173人(死刑21人)にのぼる。「日本の戦争責任を肩代わりさせられた」と見る向きもあるが、問題なのは1952年に日本が独立を回復したとき、刑の執行は継続されたが、他方でもはや日本人ではないとして軍人恩給などの援護の提供が拒否されたのである。(『BC級戦犯裁判』林博史 岩波新書 2005年)

 東京裁判でBC級戦犯として裁かれ、日本政府に救済と名誉回復を求めていた在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さんが3月28日死去した。96歳だった。

 1925年、現在の韓国・全羅南道生まれ。戦時中、日本軍軍属としてタイで捕虜収容所の監視員を務めた。捕虜を泰緬(たいめん)鉄道建設に従事させ多数を死なせたとして、シンガポールで連合国が開いたBC級戦犯裁判で「日本人戦犯」として死刑判決を受けた。減刑後、東京に移され、56年に仮釈放された。

 元戦犯に対する恩給など日本政府の援護制度は、日本国籍を失ったことを理由に対象外とされた。元戦犯者らと「同進会」を結成し、政府に「日本人戦犯には恩給や慰謝料を給付しているのに、なぜ外国籍戦犯を差別するのか」と救済と名誉回復を訴えていた(韓国では「植民地支配の被害者」と認め、名誉回復)。
韓国人の元BC級戦犯、李鶴来さん死去 国に救済訴え(「朝日新聞デジタル」2021年3月28日)
https://www.asahi.com/articles/ASP3X7301P3XUTIL01W.html
TBSの取材が2020年11月におこなわれ、これが生前最後のインタビューとなった。それ以前の取材映像も含めて以下TBSの報道特集(「最後の韓国人元BC級戦犯の死」)の一部を紹介してみたい。

李鶴(以下イさん) さんは語る。「日本人の戦犯の場合は恩給や慰謝料が払われている。私たちの韓国人や台湾人の問題は一向に改修しようとしない。不条理だ」

戦時中は捕虜の監視要員だった。「捕虜監視とかそんなものは日本の軍隊がやるべきではなく、韓国・朝鮮人にやらせればいいんだと」

植民地の新聞(京城日報 1942年)。「半島青年、数

植民地の新聞(「京城日報」 1942年)。「半島青年、数千名採用」とある(You Tubeより)


捕虜の監視要員は当時植民地だった朝鮮と台湾から集められた。朝鮮半島にいた当時17歳だったイさんが送られた。上から割り当てられて拒否できなかった、という。

タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道。イさんは朝鮮半島から直接ここへ送られた。建設は鉄道の枕木1本に死者1人といわれる壮絶なものだ。鉄道はビルマ戦線へ補給物資を運ぶため全長415キロを結ぶ計画だった。建設に投入されたのはオーストラリアやアメリカイギリスなど連合国の捕虜だった。およそ5万5000人、その他にもタイなどアジア諸国から7万人とも10万人ともいわれる労働者が集められた。

泰緬鉄道

泰緬鉄道(You Tubeより)

食料や医薬品が不足しコレラやマラリアが蔓延する中でイさんは上官から明日はこの人数をよこせと要求され、病人でも借り出さざるを得なかったと言う。

「食べ物も悪い、労働力もない、そうした中で労働させる。そういった悪影響のなかで労働させるわけでしょ、すると病気になる。死んでいくしか方法がないですよ。捕虜は消耗品の扱いをされている。非常に気の毒だった」

捕虜は反抗する、日本軍に教わったやり方で対応した。「捕虜たちは規則を守らない、そうするとこの野郎、気をつけろとビンタで殴るときもあるんですよ、それが虐待とは思っていないわけ」

これは終戦直後に撮影された映像。泰緬鉄道の建設に動員された捕虜の姿が写っている

これは終戦直後に撮影された映像。泰緬鉄道の建設に動員された捕虜の姿が写っている(You Tubeより)


4万人の死者を出して鉄道は完成した。しかし、連合国の空爆で寸断されほとんど役にたたなかった。戦後指導者層がA級戦犯として裁かれる一方で、士官や軍属らが戦争犯罪や人道に反する罪を犯したBC級戦犯として裁かれた。BC級戦犯として起訴された5700人のうち植民地の朝鮮・台湾出身者は321人。そのほとんどは捕虜収容所の関係者だった。

イさんは劣悪な環境で捕虜に重い労働を課し死亡させた、という理由でシンガポールに送られ裁かれた。英語で進められた裁判、わずか2日で下された判決は絞首刑だった。

「何が何だかわからないまま、あとになって死刑囚監房ですか、そこに入ってそれで死刑判決を受けたのだと気がついた。あのときの情況は憶えていないですね--気絶してしまい、分からないですね」

イさんは8カ月間シンガポールのチャンギ刑務所に死刑囚として収容され、20人ちかくの日本人と朝鮮人の死刑囚を見送った。処刑される前の晩は天ぷらなど日本の食事が出され戦犯たちは晩餐会と呼んでいた。

「名前を呼び出されると明日が殺される日。その瞬間は死刑囚監房がシーンとして、すごく寂しい状況の監房になる」「その晩、明日死ぬ者がこんな騒ぎをして死んでいくのかなと思うくらい…ばか話やのろけ話をしたりするわけですよ」

死刑囚の林永俊(イム・ヨン・ジュン)さんの最期の言葉が忘れられない。「広村(当時は日本名の広村鶴来)さんが減刑になることを祈ります」「外に出たら林(イム)という男は、そんな悪い男ではないと言ってください、と私にいうわけで、私だって死んでいくのだから、返事のしようがなくただ握手をして別れた」「仲間たちが果たして殺されるだけの虐待をしたのか、軍の命令で上官の命令を受けて捕虜を労務に出しただけ」

イさんは告訴していた捕虜が死刑までは望まないとしたことで、懲役刑に減刑になり巣鴨プリズンに、そのとき初めて日本の土を踏んだ。

1952年のサンフランシスコ講話条約が発効とともに植民地出身者は日本国籍を失う。それでも「日本軍の戦犯」として刑の執行は続いた、釈放されたのは終戦の11年後だった。その後も苦難が続く。日本になんのつてもなかったが、韓国に戻ることができなかった。

「いの一番に家に帰って親孝行をしたいと思った。だけど”日本のために尽くした親日派”そして悪いことをして戦犯となったということで、韓国では村八分となって大変です」

金も仕事もなく生活は困窮した。日本人には軍人恩給などの措置に対し、日本国籍でなくなったことを理由に植民地出身者に同等の補償を受けられなかった。仲間にはつらい状況に耐えかねて自殺する人もいた。イさんが綴った手記にはこう書かれている。「都合のいいときは日本人、都合の悪いときは”朝鮮人”である」

イさんは日本人は仁徳のある国民だと思うが、国会にいくと違う。自分の民族はちゃんとやって、韓国や台湾は民族が違うからと言って知らん顔をするのは、あまりにも不条理だと語る。

番組では巣鴨プリズンに収監された戦犯の支援や減刑活動を行った今井知文さんという医師を紹介している。今井さんは特に植民地出身者のBC級戦犯に衝撃を受けて支援していた。「日本人のひとりとして申し訳ない」として、イさんを支援し資金を融通し、それを元手にタクシー会社を興した。イさんは、今井さんを「二度とない恩人」と語る。

イさんは死刑となった仲間が浮かばれない、と1991年に名誉回復と補償を求め国を提訴した。日本政府は「1965年の日韓請求権協定で補償問題は解決済み」と主張した。1999年最高裁で訴えは退けられた。しかし国会や政府に「問題の早期解決のため立法措置を講じることが期待される」と対応を促す言及があった。

何人もの国会議員に要請を重ねて、2016年に超党派の議員連盟が外国人の元BC級戦犯と遺族に特別給付金を支給する法案を準備した。しかし国会の提出には至っていない。なぜ進まないのか。自民党の河村建夫元官房長官は語る「内閣の意向と、調整もつかなかった、党内の理解というものもある、これを解決しないと戦後の処理をしたことにならない」

最期の取材で、イさんは「私は95年も生きて、これ以上長生きしたい気はさらさらない、良識ある日本国民の皆さんにお願いして死んでいきたい」と言い遺す。

(編集部)