軍と人びと-中島飛行機武蔵製作所の戦後史

五郎丸聖子

武蔵野中央公園の現在。(東京都公園協会のサイトより)

武蔵野中央公園の現在。(東京都公園協会のサイトより)

 現在の武蔵野市、かつての武蔵野町には第一軍需工廠・中島飛行機武蔵製作所がありました。ここで日本軍用機エンジンのおよそ3割が製造され、中島飛行機株式会社が武蔵野町西窪(現在の武蔵野市緑町)に工場を開設しました。やがてここが米軍の爆撃対象として攻撃されることにつながっていきます。第二次世界大戦末期、米軍の爆撃機B29による日本本土の最初の爆撃目標は武蔵製作所でした。そこで働いていた人びと、周辺で生活をしていた人びとにも大きな影響を与えることになりました。戦後、武蔵野町は武蔵野市として再出発します。今、かつて中島飛行機武蔵製作所のあった場所の一部は都立武蔵野中央公園となっています。

※長文ですのでPDFでもご覧になれます。以下URLから願います(4A判19頁)
https://drive.google.com/open?id=0B7rXaN1wY1rhY2dhTFMzbmVETms


目次


はじめに

1. 中島飛行機武蔵製作所、賠償工場に指定

2. 付属武蔵野病院跡地に都営関前住宅

  ○都営関前住宅の人びと

3. 武蔵野が基地の街になる・・・

  ○米軍宿舎・グリーンパーク建設反対運動

4. 他地への基地移転を求める運動

  ○国VS日本文化住宅協会

おわりに


はじめに・・・

 戦後70年の節目の年であった2015年、日本社会を構成する多くの人びとは、政府・与党が進めた安全保障関連法案の強行採決、沖縄辺野古への新基地建設をめぐる沖縄県と政府との攻防、そして沖縄県民をはじめとする新基地建設に反対する人びとの闘いを目の当たりにしました。

 これらの場面は、戦後の長い間先送りにしてきた安全保障のあり方、自衛隊のあり方という課題に一人ひとりが向き合わざるを得なくなったことを示していたといえるでしょう。私たちは、軍の存在に正面から対峙しなくてはならなくなったのです。軍隊が軍隊として機能するとはどういうことか・・・ということに。

 2015年の夏の安保関連法案審議の中で、政府は、日本の安全保障環境は大きく変化した、これまでの安保体制では立ち行かない、という現状認識を示しました。それゆえ、「国の存立」「国民の命と平和な暮らし」を守るためには集団的自衛権の「限定的」容認を含む安全保障法制の整備が不可欠だとしました。これに対して、多くの憲法学者はこの法案を違憲だとしました。また、この法案が憲法の理念に反しているし、審議の進め方が立憲主義を冒涜するものだとして多くの人びとも連日国会前をはじめ、全国各地で、この法案の廃案を求める声をあげました。ですが、これらの声が政府、与党へ届くことはなく、安保関連法案は採決されました。

 ところで、政府のいう「平和な暮らし」とは私たちにとってどのようなものなのでしょうか。それは、果たして政府の考えるものと一致しているのでしょうか。必ずしも一致はしていないのではないか、そのように考えたとき、戦後未だかつてないほどに、「日本国の安全保障」に向き合わなければならない状況の中で、人びとの中に日本国(国家)と自身(個人)を同一視して安全保障のあり方を考える人が多いことがとても気にかかります。先ほど述べた、政府の考える私たちの「平和な暮らし」が私たちの考えるそれと一致するのかということと合わせて、国家の利害と私たち個人の利害を同一視してもいいのか?ということは、改めてよく考えるべきではないかと思うのです。つまり、国家の視点ではなく、あくまで自身の、個人の視点で、安全保障について、軍について考えてみてほしいというのが、私のささやかな提案であり願いなのです。

 ただ、そのような視点で考えるのはそれほど簡単なことではないかもしれない。それは一つには、安全保障や外交が国家の専権事項だという考え方が強固にあるからかもしれません。確かに直接的な交渉の担い手や、最終判断はその通りでしょう。ですが、平時にせよ、有事にせよ、安全保障戦略の結果の影響を受けるのは個人です。そして、国家がどのような安全保障戦略、外交戦略をとるべきなのか、ということについて個人は物申す権利を有しています。とはいえ、やはり、安全保障や軍については、自分自身に引きつけて考えることは難しい。それは、安全保障や軍が身近なものとしてリアルにイメージできないからでしょう。

 以前、私は武蔵野市の平和事業の実行委員会に2年間ほど公募委員として参加していました。実行委員は、武蔵野市内の団体で活動する人や、PTA、市内の大学生、そして公募の市民などで構成されたものでした。

 事業では、パネル展示や当事者の方の語りや聞き取りにより中島飛行機武蔵製作所の歴史について説明したことがありました。現在の武蔵野市、かつての武蔵野町には第一軍需工廠・中島飛行機武蔵製作所(以下、武蔵製作所)がありました。工廠とは軍隊直属の軍需工場のことで、武器・弾薬をはじめとする軍需品を開発・製造・修理・貯蔵するための施設のことです。中島飛行機は戦前日本を代表する航空機メーカーであり、武蔵製作所はエンジンの製造工場でした。ここで日本軍用機エンジンのおよそ3割が製造され、1938(昭和13)年、中島飛行機株式会社が武蔵野町西窪(現在の武蔵野市緑町)に工場を開設しました。これにより、当時30000人の武蔵野町の人口は、2年間で50000人に膨れ上がりました(1。

工場をとりまく周辺農地は、次々と関連工場へと変わり、ここで働く人びとのために商店街が誕生し、1941(昭和16)年には、三鷹駅武蔵野口(北口)も開設されました(2。このように、中島飛行機が日本で最大級の規模を持つ航空機工場を開設したことは武蔵野町を軍需の町として発展させていきました。

第二次世界大戦末期、マリアナ諸島に基地を強化した米軍の爆撃機B29による日本本土の最初の爆撃目標は武蔵製作所でした。最初の爆撃は1944年11月24日。以降9回の爆撃を受けることになりました。軍需工場が戦略上そのような対象となることは当然であったのでしょう。しかし、同時にそれはそこで働いていた人びと、周辺で生活をしていた人びとにも大きな影響を与えることになりました。

私が、平和事業の実行委員をしていた年の夏にも、上記のような説明と共に長年武蔵製作所の歴史を調査している方がレクチャーしてくださる場面がありました。その席で、ある参加者の一人が、「被害の実態ばかり語るのではなく、加害の面も語らなくていいのか?」といったコメントをされました。ここで参加者の方が伝えたかったのは、中島飛行機という軍需工場があったからこそ、武蔵野は爆撃の対象となった。工場で働いた(働かされた)人びと、工場周辺に住んでいた人びとは、いわば加害の武器となる航空機のエンジン製造工場があったために被害にあったのであるから、そのことに着目しないでいいのか?ということだったのでしょう。わたし自身も、戦前の武蔵製作所のことを詳しく知るにつけ、同じ問題意識が芽生えていました。軍事に関わる町は、軍事の犠牲になるということ。このことは普遍的なことであり、このことこそ直視するべきではないのか?と。

 武蔵野町は1947年11月、武蔵野市として再出発しました。軍需の町であったことは、戦後の武蔵野市にも多大な影響を与えていくことになりました。1972年に武蔵野市吉祥寺東町で生まれ南町で10歳まで過ごしたわたしが、自身の住むところがかつて軍需の町だったと知ったのは小学校1年生のときでした。クラスの男子生徒が、自身の祖父が中島飛行機武蔵製作所で働いていたと話したことがきっかけでした。たしか授業中か放課後かに、担任の先生が戦争の話をし、武蔵野市には軍の飛行機をつくる大きな工場があったのを知っているか?と生徒に質問し、それに前述の男子生徒が応えたのです。その後、クラスメート数人は、先生といっしょに武蔵製作所跡地へいくことになりました。武蔵製作所の西工場にあたる部分、いまの都立武蔵野中央公園があるところは、そのとき、フェンスに囲まれただだっ広い芝生でした。1978年のことです。

●中島飛行機武蔵製作所(米軍撮影) 武蔵野市HPより

●中島飛行機武蔵製作所(米軍撮影) 武蔵野市HPより

●赤で囲った部分が武蔵製作所跡地

●赤で囲った部分が武蔵製作所跡地

 1989年に公園化した土地は、中島飛行機武蔵製作所所有から国有地となり、日米安保条約締結後には米軍将校の家族住宅グリーンパークとなります。そして、米軍からの土地返還を求める市民運動の展開を経て、1976年から77年にかけて米軍宿舎は解体されました。

小学校1年の私がクラスメートと訪れた1978年は、ちょうど米軍宿舎の解体が完了し都への引き渡しが済んだすぐあとであったようです。記録によれば、77年の7月8月は夏休みということで一部が開放され、その翌年には全面開放されています。

 中島飛行機武蔵製作所についての歴史的検討は、軍事史としても、武蔵野の地域史としても詳細な調査が進み、武蔵野市民をはじめ他の地域の人びとからも大きな関心を寄せられ、戦前の武蔵製作所については様々な形で知る機会があります。ですが、軍需施設であった武蔵製作所が戦後どのような変遷をたどり、今にいたったのかということについてはそれほど知られていません。

そこで今回は、かつて軍需の町であった武蔵野町が戦後どのように軍に対して向き合ってきたのか、中島飛行機武蔵製作所の跡地をめぐる様々なアクターの行動や態度を通じて検討してみたいと思っています。そのことを通じて、今現在の日本社会が直面している、安全保障のあり方、自衛隊のあり方について、個人の視点で向き合う際のひとつの手がかりとして提示することができたらと願っています。


1.中島飛行機武蔵製作所、賠償工場に指定

1945年8月15日、日本は敗戦を迎えた。敗戦の4カ月前に国に借り上げられ国営の「第一軍需工廠第十一製造廠」・中島飛行機は、8月17日に定款を変更し、社名を「富士産業」と改めた。8月26日、「第一軍需工廠」は解散となり、巨額の負債とともに富士産業へ返された。

一方、連合国軍最高司令部(以下、GHQ)は、占領政策開始まもなく軍需生産を全面停止する。財閥を解体し、解体逃れを封じるため制限会社を指定した。富士産業も45年11月、三井・三菱・住友・安田の四大財閥とともに制限会社に指定された。

この間、武蔵製作所は、再建不能だとして閉鎖されることが決定した。また、46年1月、GHQにより武蔵製作所が賠償工場に指定されたため、土地処分のほか賠償用の機器類の整備を急がなければならなくなった(3。

武蔵製作所の整理にあたったのは富士産業武蔵整理部(以下、整理部)であった。武蔵製作所西工場本館3Fを事務所として使用し、事務担当約150人、総勢約300人が業務にあたった。まず、整理部は焼け跡の片づけと機器類の整理に着手した。鉄くずを売って運転資金にする一方、土地の処分を進めていった(4。

西工場の建物と土地については、戦時中、中島飛行機が軍需工場を建設する際に国から貸し付けられた20億円のうち、弁済未納金を補うものとして、建物を1949年12月、土地を1950年6月、富士産業は国に物納した。したがってこの時点で西工場の土地建物は国有となった。

2.付属武蔵野病院跡地に都営関前住宅

整理部において進められていた工場の整理作業は早い時期に終わったが、土地処分はまだ残っていた。だがこの作業が終わることは社員が職を失うことも意味していた。

1946年3月、占領下の日本で、労働組合法が施行された。整理部にも組合ができ、雇用確保が最大の課題であった。「完全雇用が無理なら社有地を払い下げてくれ、それで何とかする。」と鈴木組合委員長は会社側と交渉し、雇用確保を目指した。結局、会社側が新たに設立した4社?武蔵野文化都市建設、中島機械工業、東京農林工業、浅川砕石-で希望者は働くこととなる(5。

武蔵野文化都市建設(以下、文化都市建設)は、1947年5月に20人ほどで発足した。定款で「戦災により荒廃せる武蔵野地域を文化的に復興する」と謳われ、文化人のリーダーが必要だということで市内在住の元逓信院総裁の松前重義が社長として迎えられた(6。当時、公職追放中の身であった松前氏は武蔵製作所の戦後史に度々登場することになる。

いずれにせよ、整理部解散後、OB職員の一部が働くことになった文化都市建設は、職員が退職金を拠出する形で、東工場の一部と付属病院跡地を買い取った。そして具体的にどのような事業をやるのか連日議論が繰り広げられた。大勢が競輪場誘致に傾いたとき、松前が競輪は博打の一種だとして猛反対し、野球場を提案したのだという(7。1949年10月、野球場建設が決まる。敷地54000余平方メートル。51000人収容のグリーンパーク球場(8 の建設が始まった。社名は東京グリーンパークに変わった。

では、一方の付属病院跡地はどうなったのだろうか。都立武蔵野北高校や中央公園と伏見通りを隔てた現在の八幡町4丁目はかつて関前と呼ばれた。戦前、ここには中島飛行機付属武蔵野病院があり、1944年12月27日の空襲で病棟3棟は破壊され瓦礫で埋め尽くされた。戦後もそのまま放置されていた。

敗戦直後、日本政府はかつて経験したことがないほどの深刻な住宅難への応急対策に追われた。1945年8月時点で、空襲による消失住宅数は210万戸、その他不足数合わせて420万戸の住宅が不足していた。迫りくる冬。越冬のための住宅供給は緊急を要していた。こうした状況の中で、政府はまず、1945年に「罹災都市応急住宅建設要綱」をまとめ、国庫補助による「応急簡易住宅」の建設に乗り出した(9。敗戦直後のバラックについては、現代の人びとでもその様子を映画やドラマでよく目にすることだろう。それは材料難の中でつくられたまさしく「応急住宅」であり、例えば、1945年11月に東京都が最初に建設した住宅は、板張りのマッチ箱の両側に長方形の窓を開け、その窓にはガラスの代用品としてセロファンを貼り、屋根も防水加工の紙ぶきという、住宅と呼ぶのさえ気のひける物件だったという(10。

文化都市建設が使用用途を検討していた付属病院跡地も応急住宅建設地として東京都の目にとまることになる。一部に権利を残すことを条件に、文化都市建設は東京都に土地を貸与することを決定した。1948年9月から翌49年春にかけて、ここに木造二軒長屋、282戸の都営関前住宅が建設された。材料難も敗戦直後ほど酷くはなかったが、応急住宅であることには変わりなかった(11。

○都営関前住宅の人びと

 都営関前住宅にやってきた人びとは戦災者か復員者か引揚者かのいずれかであり、ホワイトカラー族が主で、経済水準、知的水準がほぼ一定だった。このように境遇が似ていたためか、次第に仲間意識が芽生えていった。そして、暮らしの中でぶつかる様々な課題を共に解決しようというムードが生じ始めた(12。バラック同然の住宅の欠陥を何とかしたいという人びとの思いは、1950年4月に「親和会」という自治組織を誕生させた。「親和会」は精力的に動き、1年の間に、ガス開通、道路補修、駐在所誘致などに成功した(13。

だが「親和会」という自治組織はそう簡単に誕生したわけではなかった。当初、関前住宅の中で、自治会賛成派と反対派に二分されていたという。敗戦直後の日本社会には自治組織を認めない空気があった。当時、知識人を中心に自治組織に強く反対する議論が巻き起こっていた(14。反対の理由は、戦前の町内会や隣組と同じことになることへの危惧であった。大政翼賛会の末端組織として戦争遂行に協力し、個人生活を規制したあの忌まわしい隣組を復活させるなどもってのほかだと反対派は考えたのである(15。

戦前の復活だけは何としても拒みたいが、とはいえ、ガスや下水道問題という目の前の課題のため取り組まざるを得ない状況のなかで、結局は、反対派の人びとも、自治会の結成を認めることになる。要求事項を実現するため、それぞれの要望にそって実行委員会が設けられた。下水道完備を促進するための実行委、ガス引き込、住宅内道路砂利敷きを実現するための実行委、駐在所設置を促進する実行委などである(16。関前住宅の人びとは日々の生活の中でぶつかる様々な課題に自分たちで果敢に挑戦することになっていった。そして、後には米軍宿舎建設に対する反対運動でも親和会は先陣をきって闘うことになるのである。


3.武蔵野が基地の街になる・・・

1953年12月、西工場6棟があった一番大きな敷地をはじめ、その南側部分、東工場の北東部分、製作所正門東側部分を併せた約13万平方メートルが米軍に接収された。都内にちらばっていた米軍住宅を集約でき、かつ立川に近い場所ということから同所は選ばれた。焼け残ったコンクリート製の西工場6棟は、全棟が米軍宿舎に転用された。

接収された敷地は、米軍によってエリア別にABCD4地区と呼ばれた。A地区は旧西工場の前面広場で、米軍宿舎の駐車場になった。現在の都立武蔵野中央公園の南側、バス通りに面した部分である。B地区は旧東工場の正門の前辺りになる。米軍の消防施設がもうけられた。現在の私立武蔵野東学園の場所である。C地区は旧東工場の東側、B地区の北側になる。アメリカンスクールが設置された。現在の武蔵野市役所の場所である。D地区は旧西工場の建物があった場所。空襲で被害を受けはしたが改修され米軍宿舎として使用された。現在の武蔵野中央公園の大部分にあたる。

  ●『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上』

●『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上(17 』


●『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上』

●『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上(18 』


(1 河原清美「武蔵野市の歴史と中島飛行機株式会社武蔵製作所」夏季市民講座記録の会/武蔵野市教育委員会『戦争と平和を考える 戦争と武蔵野市―中島飛行機を中心に―』p8。
(2 三鷹駅自体は1930(昭和5)年に開設。
(3 『富士重工業三十年史』(1984)pp53-57。
(4 長沼石根(2001)「東工場の戦後 ―中島飛行機武蔵製作所物語④」『季刊 むさしの 昭和の武蔵野・番外編 より 中島飛行機武蔵製作所物語 』p13。
(5 長沼前掲書p14。
(6 武蔵製作所東工場跡地の北側部分は、現在、NTT武蔵野研究開発センターとなっているが、その前身の電気通信省研究所をこの地に誘致したのも松前重義であった。ちなみに、電気通信省研究所では武蔵製作所時代の建物が使用され、NTTとなってからも2棟の建物は使用されていた。だが2001年9月、解体工事が着手され、その際、唯一確認されていた武蔵製作所時代の地下道も取り壊された。長沼前掲書p14。
(7 長沼前掲書p14
(8 大規模な球場建設に伴い、大量輸送機関も必要だということになり、松前は天坊裕彦国鉄副総裁を頼り、武蔵製作所時代の鉄道を一部活用する形での三鷹駅から中央線の引き込み線建設を働きかけ、1950年末に三鷹駅から武蔵野競技場前まで観客を運ぶ路線の工事は完了した。国鉄にはプロ野球進出も働きかけ、1950年1月、国鉄スワローズが誕生した。第一試合は1951年4月14日。この頃、神宮球場がGHQに接収されていたため東京六大学野球の春のリーグ戦19試合がここで実施された。5月5日には初のプロ野球公式戦。名古屋(現中日)対国鉄、名古屋対巨人の変則ダブルヘッター。金田正一が国鉄投手としてマウンドに立ち勝ち投手になった。(長沼前掲書p15。)
 このように戦後間もなく武蔵野市内で華々しく六大学野球とプロ野球公式戦が行われたわけだが、この事業は順調には進まなかった。風で舞い上がる砂埃のひどさに選手も観客も音を上げてしまったのだ。また都心からのアクセスの悪さ、国鉄の低迷なども相まって客足が伸びず、翌シーズン限り(1952)で東京グリーンパークは倒産した。(脇坂勇(1988)『八幡町ものがたりーある都営住宅の戦後史』p98。)セ・リーグ延べ6日間12試合、パ・リーグ延べ2日間4試合が同球場で実施されたプロ野球公式戦全試合だった。間もなく球場は閉鎖され、引き込み線も解体が決まった。野球場はしばらく放置され子どもたちの遊び場になっていたが、1957年日本住宅公団武蔵野緑町団地となった。引込み線は1959年10月に廃線が決定し撤去された。
(9 永野義記(2006)第2章「戦後の住宅生産と行政政策の変遷」『住宅政策と住宅生産の変遷に関する基礎的研究―木造住宅在来工法に係わる振興政策の変遷―』。
(10 脇坂前掲書、p7。
(11 脇坂前掲書、pp7-8。
(12 同上、p49。
(13 同上。
(14 同上、p119。
(15 同上、pp53-60。
(16 同上。
(17 武蔵野市(1995)『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上』、p470。
(18 武蔵野市前掲書、p474。