軍と人びと-中島飛行機武蔵製作所の戦後史


武蔵野中央公園(東京都公園協会式サイトより)

武蔵野中央公園(東京都公園協会式サイトより)


○米軍宿舎・グリーンパーク建設反対運動
 1951年9月、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が調印され、日本は国際社会へ復帰した。このころ、関前住宅の住民の一部では、安保条約の影響を武蔵野も受けるかもしれないといううわさが出ていた。

 作家の窪田精が、関前住宅に住む作家仲間の吉岡達夫を訪れ、「ナカジマ」も安保の影響をうけるかもしれないといった。窪田は関前住宅のすぐ北側の柳沢都営住宅住人であり、近所に住む吉岡の家をちょくちょく訪れていた。「…政府はナカジマを安保にもとづく基地化プランに入れている。決まればそこは米軍占領地区というわけです。武蔵野市であれ関前住民であれオフリミット、まわりは金網で囲まれるだろうし、警備兵が銃をかついでパトロールを…」といいかけたとき、吉岡は「やめろ!不愉快だ」と窪田の話をさえぎった(19 。米軍がわが町武蔵野にいる状況を想像すらしたくなかったのだろう。当時の多くの日本人がこうした心理状況だったことは想像に難くない。

敗戦によって解体された武蔵製作所と付属施設の跡地のうち、東工場跡地は、武蔵野文化都市建設会社による野球場建設、電気通信省による電気通信研究所建設という形で利用され、附属病院跡地は東京都が土地を借り、都営住宅が建設された。ところが、西工場跡は鉄筋ビルが爆撃で破壊されたまま、瓦礫の山をさらしていた。そして、この西工場跡地は、中島飛行機が戦前、軍需工場を建設する際に国から貸し付けられた20億円のうち、弁済未納金を補うものとして、前述のとおり、戦後、土地、建物が国へと物納されていた。すなわち国有地となっていた。

1951年に調印された日米安保条約により、アメリカは日本を軍事基地として使用できるようになった。武蔵野周辺では、旧日本陸軍施設を流用してつくられた立川基地をはじめ、横田、調布、ジョンソン(埼玉)の各基地には飛行場が建設された。また清瀬、大和田には通信施設。そのほか多摩弾薬庫、相模原補給廠。特に1950年に勃発した朝鮮戦争により立川基地は重要な戦略拠点として位置付けられるようになり、そこではたらく将兵の宿泊施設の不足という問題が発生していた(20。

武蔵野に米軍施設がくるという話は、その後、続報らしいものがしばらく入らずに翌年1952年を迎え、2月末、日米行政協定が調印される。3月に入ると、吉田首相の指示によって外務省は、「占領下諸法令の再検討」によりGHQから打ち出されていた軍事基地拡充プランへの対応策を検討し始めた。まさに、その中で、武蔵野市の旧中島飛行機武蔵製作所西工場跡地の基地化問題が取り上げられた(21。

今度は武蔵野市が占領される・・・我が身にふりかかる問題としてこのうわさは武蔵野市内に広まった。だが、基地化にみんなが反対かといえばそうではなかった。地価が高騰するといってほくそ笑む地主もいれば、アメリカ兵相手にぼろい商売ができるといって喜ぶ水商売の経営者もいるにちがいなかった。悩みは同じだと思ったものが実はそうでなかったりしたのである(22。

武蔵野から西へ中央線で20分ほどの立川はすでに「基地の街」だった。当時、立川では、基地の存在からくる「風紀の乱れ」が深刻な問題となっていた。朝鮮戦争の重要な拠点の一つであった立川基地周辺、特に、立川駅から基地に近い北口側の高松町、曙町、駅南口側では錦町、柴崎町といった一帯で売春と酔っ払い、暴力、ヒロポン中毒、賭博行為などの被害がひどくなっていた。こうした事態を深刻に受け止めた市民の中から、市内在住の文化人が先頭にたち「環境浄化運動(23」が繰り広げられていた(24。すぐ近くの「基地の街」立川ではすでに武蔵野市民の憂慮する事態が起きていたのである。

また、1952年11月には、朝鮮戦争に向かうため立川飛行場を離陸した米軍輸送機が、離陸直後に墜落するという事件が発生した。墜落地点は砂川町中里で、同機が爆発炎上したために民家百戸あまりが類焼するなど大きな被害を受けた。基地があるということは、周辺の人びとの暮らしがこうした脅威とともにあるということであった。

こうした立川の状況を一方で目の当たりにしながら、新聞、ラジオで報じられる「武蔵野市に米軍基地」というニュースにより、武蔵野市民は現実を直視するほかなかった。そのときの心情を、脇坂は、「胸もとにライフルの銃口が突きつけられた」心持だったと後に語っている(25。

もううわさなどではない。現実である。じっとしてはいられない。人びとは動き出した。1952年8月、駐留軍宿舎建設反対に関する請願および陳情が武蔵野市議会に出される。当時の人びとの基地に対する脅威の心情がよくつたわるので、少し長いが全文を以下に掲載する。

(駐留軍宿舎建設反対に関する請願)

私共は、元中島飛行機株式会社工場跡に、駐留軍宿舎がつくられることに重大なる関心を抱いております。各地の駐留地に見られるように暴行その他の犯罪や交通事故が激増することを心から心配するものであります。

付近には関前住宅、保谷住宅他の集団的な住宅が多いため、これらのことは予想されるばかりでなく、各地の状況によって実証されるところであります。しかも宿舎建設予定地は、女子大学を初め多くの公私立中小学校に近く教育上の影響も甚大であります。

その上当市の財政負担の上にも少なからず負担となることは明らかであって、如何なる点からみても当市及びその住宅者に害を与えこそすれ、何等の利益にもならないと信じます。

従つて、私達は当市に駐留軍の宿舎が建設されることを極力防止したいのです。市議会においてもなにとぞ私達の意向をくみとられ駐留軍の宿舎建設に反対の決議をなされんことを請願する次第であります(26。

前段に書かれた内容こそが、多くの人びとがもつ基地への脅威の共通項であっただろう。すでに「基地の街」となっている他地域においてはこうした事件が頻発していた。これが自分の住む町でもおこるなんて絶対にいやだと思うのは当然のことであった。

上記請願は同年10月採択となる。市議会は駐留軍宿舎設置反対特別委員会を設置し、市長とともに反対運動を展開した。これが米軍宿舎・グリーンパークへの最初の反対運動であった。関前住宅親和会、PTA,婦人こどもを守る会(日赤奉仕団)、教職員組合、知識人有志、といった各種団体、有志の会がこの運動の担い手であった。いずれも、最初は地域ごとの、個人の家を利用した寄合から始まったという(27。手作りの草の根の運動だった。わが町に基地はごめんだ、と思う人びとは動き出したのである。

武蔵野市議会は、前述のような市民組織を土台に「米軍宿舎反対期成同盟」(以下、「同盟」)を結成した。委員長は荒井源吉市長が務めた。保守系出身ではあったが、国政に掉さすこの運動の先頭に立った。「同盟」は定期的な連絡会を持ち、数次にわたる住民大会と、外務省、文部省など政府関係筋への陳情行動を経て、やがて「米軍宿舎建設反対、教育と平和を守る統一行動」へと発展した。反対運動の委員は、立川、調布、座間、朝霞など「基地の街」の実情を調査し、各町の実態と、市民による自主的な「環境浄化運動」の動向を報告した(28。

武蔵野市民らによる「米軍宿舎建設反対」運動を受けて、52年10月15日、米軍側から一つの妥協案が提示された。当初4000名収容の将兵宿舎の建設予定だったプランを婦人将校および家族持ち将校に限定し、入居者の立川ほか各基地への通常の交通機関としては専用バスをもってこれに当てると。つまり、風紀問題についての配慮を人びとへ示したのであった。

武蔵野での建設を諦めた一般兵舎は、結局、立川市の北隣の大和村(現在の東大和市)に変更された。西武鉄道の所有地でかつての日立工場跡地であった12万6千坪がその対象となった。これに対し、大和村は武蔵野市の動きに呼応する形で全村挙げて反対運動を開始した(29。だが1956年2月24日に米軍立川基地大和宿舎は完成した。

 一方、米軍から提示された妥協案は、武蔵野において、反対運動のひとつの成果にはちがいなかった。だが、反対運動の大勢にはなんら影響もおよぼさず、52年12月14日には、市立一中校庭で反対闘争の市民大会が開かれ、3200人もの参加者によって妥協案阻止、基地建設絶対反対が叫ばれた。それでも結局は、こうした市民の訴えが事態を変えることはなかった。翌53年2月、米軍側の強い要請のもと日本政府は一方的に工事の入札を決定した。大成建設、勝呂組、安藤組が改修工事を請け負った(30。

米軍宿舎建設反対運動は、工事着工を阻止できなかったことで全面的な敗北といわざるをえなかった。その原因は様々なものが挙げられたが、結局は、建設用地が国有地であり、既存の建造物が敗戦後に戦勝国に対する賠償工場に指定され、そこに日米安保条約、日米行政協定が調印されたのであり、日本はアメリカに軍事基地を提供しなければならない、という状況が強固にそこに存在したのであった(31。軍事関連施設が戦前に存在したこと、すなわち中島飛行機武蔵製作所が武蔵野に存在したことが戦後にも連続して影響を与えたということになる。だが、それに対して、人びとが危機感を感じ、絶対に受け入れたくないという意思表示をし、地方議会と行政を動かし、一体となって反対運動を展開したことは改めて確認しておくべきだろう。と同時に、軍事関連施設の存在は、人びとの暮らしに多大な影響を与えるということも確認しておかなければならない。人びとが平和に生存する権利を脅かすということである。戦前の経験と、すでに「基地の街」となっていた各地の人びとの声を受け止めた当時の武蔵野の人びとは、全力で米軍がわが町に来ることを拒否したのであった。人びとのそうした強い意思と闘いがあったことは忘れてはならない。

だが、結局、国家の意思が人びとの意思よりも優先された。宿舎建設の業者を決定するに至り、駐留軍宿舎設置反対特別委員会は廃止され、代わりに駐留軍宿舎対策特別委員会が設置された。その目的は治安、風紀、衛生問題への対応であった(32。米軍宿舎は建設されてしまう。だったら、少なくとも米軍が人びとの生活を脅かさないようにしなければならない。そういう人びとの意思であった。

わたしの母一家は、戦後、1947年に吉祥寺の東の端に居を構えた。中央線沿いの家は吉祥寺と西荻窪駅の中間に位置し、米軍宿舎・グリーンパークはちょうど市の東端と西端の関係で、そういう意味では基地が身近にあったわけではなかった。だが、母はわたしに米軍宿舎・グリーンパークのことをよく話してくれた。母にとって特に印象的だったのは宿舎のゲートの大きさだったという。小学校高学年の母は、―おそらく1956年ごろ―、祖父に連れられてゲート近くまで、夏の夕方いっしょに散歩をしたそうだ。ゲート前にきたとき、祖父が「ボールがゲートの中に入ってもなかに取りにいっちゃいけないよ。この中は治外法権っていうんだよ。」と母に話したのだという。ゲートに立つ米軍の軍人はニコニコして怖くはなかったが、祖父がいつもと違う調子で自分に何か重大なことを言い聞かせているのだということは感じたと、母は語った。散歩といっても、母の家からゲートまでは大人の足でも40分以上かかる。往復1時間半ほど。そこまで長距離の散歩は二人でしたことがなかったということから、祖父は、年ごろの娘をあえて現地に連れて行き、基地とはどういう存在なのかということを教えたかったのではないかと推測できる。自分の住む街に米軍施設がくるということは、そこに住む人びとの日々の暮らしのいたるところに影響を与えるということである。

宿舎は1953年11月に完成。54年2月、入舎が開始された。米軍立川基地を中心に、横田、府中基地に勤務する将校の家族650世帯、約2300人が入舎した。工費は26億円。D地区の武蔵製作所西工場建物を修繕した宿舎で将校とその家族は生活することになった。A地区は駐車場などに使用され、B地区にはアメリカンスクール、C地区には消防署が設置された。

米軍宿舎は一つの町であった。すでにあった西工場のコンクリート製建物を修復して使用するほか、旧工場当時の地下道も復旧された。さらに新たに地下27メートルから土を掘り出す工事が進むと、周辺に住む人びとは核戦争用の新地下壕ではないか?と不安な気持ちに襲われた(33。1950年代というのは、朝鮮戦争が勃発し、冷戦が東アジアにおいて熱戦化したといわれていた。東西における核戦争の脅威は日本の、武蔵野の人びとにとってもリアルなものであったのである。

このような脅威を感じつつ、一方では、宿舎西ゲート付近に、外人相手のみやげ物屋やクリーニング屋の開店準備も始まっていた。近くやってくる米軍将校とその家族を対象とした商売をしようと思うのもまた当然のことであった。人びとの思いも利害も一様ではなかったのである。

反対派であった脇坂は、実際に米軍宿舎に将校と家族が入居してからの心境を以下のように語っている。「駐留米軍や軍用基地はご免だが、アメリカ人を憎んでいるわけではないのだし、物心両面で実害をもたらさないかぎり、引越してきてしまった以上は、普通に暮らしてくれればいいのである。・・・それはそれとして、こちらも政治レベルの交渉ごと、基地化反対の抵抗の手をゆるめようとも思っていないのである(34。」と。あちらの人びととこちらの人びと。人びと同志で憎み合うのは筋がちがうが、政治レベルでは当然、反対派として交渉をすすめていくということであった。

実際、関前の人びとは、米軍宿舎・グリーンパークの人びと交流をする機会が商売のほかにもあった。将校とその家族が入居した2年目、1956年8月10日から3日間、開催されたのをきっかけに、毎年この時期に「日米合同盆踊り大会」なるものが実施された。ゲートの内側を開放して設営された会場はいつも混雑していた。盆踊りソングもジャパニーズドラムも好評で、3、4年もたったころにはサマー・キモノもゲタサンダルもすっかり板につくようになっていた(35。

盆踊り大会はいわばオフィシャルな交流ということになるが、プライベートな交流もあった。日本人主婦がメイドとしてグリーンパークで働くケースは多かった。グリーンパークでは平均800世帯の米軍家族が住んでいたというが、それに対して1200人前後の日本人のメイドが働いていたという。その中には当然、近隣の人びともいただろう。八幡町住宅(1961年、関前から八幡町へ住所変更された)の住人の中にも毎日メイドとして通っていた女性がいた(36。

人びとは、軍事施設が自分の暮らしの領域に来ることに脅威を感じつつ、それでも人びと同志で憎み合うことは筋が違うとして交流をしていた。だが、政治レベルの交渉をあきらめたわけではなかった。

4.他地への基地移転を求める運動

その後、10年ほどたち、米軍宿舎・グリーンパークの移転を求める動きが出てきた。他の米軍施設が郊外へ移転している状況の中で市民が声をあげたのである。武蔵野市からも出て行ってほしい。1966年12月、緑町団地、都営住宅、国鉄宿舎、商店街などで構成する緑町懇話会は5221名の署名をもって、他地への移転を求める「米軍3施設移転に関する請願」を市議会へ提出した。

この請願では、米軍施設を他地へ移転して「市営保育園や普通高校など、住民のための施設をつくってほしい」ということが求められた。請願の代表者窪田泰雄さんは「戦後、二十数年たったいま、米軍の施設は郊外へ移転し始めている。武蔵野市は住宅地として発展してきたのに市の中央部に米軍人宿舎のグリーンパークやアメリカンスクール、米軍消防署があり発展をさまたげている。国の機関とはかって円満に他の場所に移し住民のため利用してほしい」と話した(37。

当時の時代状況として、米軍施設が一部返還され、代わりに他地へと集約されていく動きがあり、こうした中で、上記請願は出された。この地に住む人びとの思いとしては共感するところが大きい。また筆者自身、武蔵野市で生まれ幼少時代を過ごし、またいまも同地に住んでおり、そうした立場からは、先達がこうした運動を展開してくれたおかげで、いま基地のない町で暮らすことができていることには敬意と感謝の気持ちがある。だが、現在、沖縄に基地が偏在している、偏在させているという状況を目の当たりにしているとき、自分の町にある基地が他地へ移転してくれればいいということが声高に叫ばれていたことには、きちんと向き合う必要があると思う。

○国VS日本文化住宅協会

この請願は翌年採択され、市議会は政府に意見書を提出した(38。だが、こうした動きの一方で、1967年9月には米軍宿舎敷地のうち7万6653平方メートルが財団法人日本文化協会のものだとする東京高裁の判決が報道され、武蔵野市民は驚かされる(39。武蔵野市民にとって突如現れた日本文化住宅協会とはいかなる団体だったのだろうか。少し時期を遡って確認しておこう。

富士産業(元中島飛行機で戦後に改名)は、1949年12月に建物を、翌50年6月には76517平方メートル(A+D)の土地を国に物納することで戦時中の借金の代物弁済にあてた。土地を物納した翌月1950年7月、財団法人・日本文化住宅協会(以下、協会)は設立されている。ここには建設・大蔵両省の大物OBの名前が連なっていた。D地区に1200戸の高層住宅を建設することが協会の設立目的であり、設立から4か月後の同年11月には、協会は国と7968万円余でD地区の払い下げ契約を結んでいる。代金は4回の分納だったが、協会は資金繰りがつかず初回の支払が1年近く遅延する。国はこれを理由に1951年12月付の契約解除通知を送付した。

協会は、この経緯について、後の法廷闘争(40 において以下のように主張をした。すなわち、契約通りに建物の撤去ができれば外部資金導入が図れたが、工場が賠償施設に指定されていたから手が出せない状況であった。国はこうした事情を知りながら説明を怠ったのだと。

一方で、この時期、国は米軍宿舎の用地選定を迫られていた。そうした状況の中で、日本政府がD地区の米軍への提供を決定していたことが裁判で明らかとなった。すなわち日本政府が協会の支払い停滞を理由に契約解除した本当の理由は米軍への用地提供にあったのである。

60年代に話を戻そう。67年9月には緑町2丁目住民6042名から市議会へ「米軍宿舎返還に関する請願」が出された。請願は採択され、その内容を受けて米軍施設対策特別委員会(以下、特別委員会)が設置され、調査活動を開始した。69年、特別委員会は米軍3施設返還後の利用計画案を検討。①グリーンパーク宿舎用地は市民総合センター、②消防署用地には市民スポーツセンター、③アメリカンスクール用地は市民公園とする方針を決定した。同時に日本政府、東京都などへ要望書を提出したり、文化住宅協会の実情調査を行った(41。

1970年になると、今度は、協会が、国有地であったA地区を払い下げ申請したことが判明する。A地区とD地区と合せた土地に2万人余りを収容する高層住宅を建設する構想が明らかとなったのであった。

他方、1971年8月19日、外務省で開かれた日米合同委員会で、練馬区の米軍住宅施設グラントハイツ(42(現 光が丘)とともにグリーンパークの米軍3施設が全面返還されることが決定する(43。同日、在日米空軍横田基地から具体的な返還時期を明らかにした公文書が武蔵野市長に渡された。

「米軍より武蔵野市長宛ての文書」

在日米空軍横田基地―在日米軍は日本国政府の要請に基づき、横田空軍基地内に代替住宅を建設することを条件に、都内のグラントハイツ及びグリーンパーク両家族住宅地区を日本側に返還することを決定した。

 これら2つの住宅地区の返還並びに横田米空軍基地内の代替住宅の建設に関する正式合意は、本日、日米合同委員会において成立した(44。

この協定に基づき、日本政府は、横田空軍基地内に合計1050戸の家族住宅と、学校、食料品販売所、電話交換設備、劇場、レクリエーション及びハビーショップと青少年集会所を建設するとした(45。米軍の撤退完了は72年11月。これに伴い、宿舎は横田へ移転した。その後1973年1月25日、グリーンパークの米軍3施設(筆者:宿舎、消防署、アメリカンスクール)は日本に返還された(46。

 この間、武蔵野市と市議会、人びとはどのように動いていたのだろうか。1971年8月の日米合同委員会による米軍3施設返還決定を受けて、同年12月6日には、市と市議会主催による「グリーンパーク払い下げ・跡地利用市民大会」が開催された。ここでは、市民施設として跡地が利用できることを念願し、そのために邁進することが宣言されている(47。翌1972年になると、「グリーンパーク跡地を確保し市民の施設をつくろう」というキャッチフレーズが市庁舎の垂れ幕、吉祥寺駅周辺のデパートのアドバルーンにつけられて多くの人びとにアピールした。市と市議会も運動に励んだ(48。

だが、ここから跡地利用をめぐっては、市と協会によって、国や東京都を巻き込んだ主導権争いが展開されていく。1974年8月13日、協会は1300世帯の高層住宅を建設する意向を市に示す。これを市は拒否した。 同月18日の読売新聞によれば、このとき示された完成予想図では、敷地はD地区のほか、国有地のA地区と、さらに前年73年6月に大成建設が鉄興社(49から買収したD地区隣接の土地。建物は40階建を2むね、14階建を5~6むね建設する予定となっていた。これに対して市側は、「国の払い下げ方針も決まってないA地区まで予定地に入れるのは言語道断」とカンカンになり、「協力できない」とキッパリ断ったことが報じられている(50。

11月18日、跡地利用市民大会が開催された。ここで「文化住宅協会所有地(筆者:D地区)と隣接する国有地(筆者:A地区のこと)を東京都の都市公園とする」決議がなされる。市民は、D地区とA地区を公園にしたいと表明したのである(51。11月21日には、6万7822名の署名簿を添え、大蔵、建設大臣、都知事に陳情書を提出した。都知事は「努力」を約束した(52。

他方で、この間、国会の衆議院決算委員会でも日本文化住宅協会について、設立のいきさつや業務内容、経理に疑わしい点があるとして追及がなされ、新聞でも取り上げられていた。1973年5月10日の衆院決算委員会で坂井弘一議員(公明)は、訴訟の経緯を説明し、そこでの政府の不手際を追及するとともに、①高級官僚、国会議員らが国民が知らされていない情報をもとに、甘い汁を吸おうとした。愛知蔵相や松前重義元逓信院総裁(筆者:球場や電気通信省誘致でも関与している!)も参加していた、②同協会は当時契約金の支払い能力もないのに契約した、ことなどを追及した。

また、協会は、1969年に3.3平方メートルあたり25万円相当の跡地を契約当時の210円で入手したばかりか、米軍が使用していた当時からの賃貸料など約150億円の支払いを国に求めていることを、坂井議員は明らかにした上で、これでは「二重の収奪に有っていることになる」と強調した(53。

市民も、協会の動きを許さなかった。「日本文化住宅協会の高層建築絶対反対」を訴える立て看板が41枚も八幡町4丁目の「親和会」によって立てられるなど、市民は実力行使へと乗り出した。看板はすさまじい光景を見せていた。「縦36センチ、横91センチのものと、縦23センチ、横1.8メートルの2種類。ベニヤ板に黄色いペンキを塗り、〝絶対反対″の文字は黒。グリーンパーク西側の伏見通り約400メートルにわたり、ズラリ立ち並ん(54」だ。協会の高層建築構想については、市当局、市議会が反対運動を行っているものの「一向に進展せず、住民側がシビレを切らしてこの実力行使となった(55」のであった。

市と協会の、国や東京都、そして市民を巻き込んだ米軍宿舎跡地をめぐる攻防戦は、最終的には1975年2月28日、美濃部都知事がA,D地区を含めた都立武蔵野中央公園都市計画を決定することで決着をみる。同年9月には都議会で買収案が上程され12月15日可決された。これにより69億円が売却金として土地所有者である日本文化住宅協会へ渡ることになったわけだが、同協会がどのようにこれを使用するのかという疑問が9月より継続審議された。このため「土地売却残余資金を都民の住宅難緩和に活用する」という付帯決議つきで決着がつけられた(56。

こうして協会はこの土地から手をひき、1977年2月に米軍宿舎が解体されると漸次に市民に開放されていった。そして1989年6月、ようやく武蔵野市民が待ちに待った都立武蔵野中央公園が正式開園した。

ところでこの解体工事にも日本文化住宅協会は関与していた。「よみがえる武蔵野台地 史上最大のスクラップ作戦 10億円かけ緑の公園に」という1976年4月14日の産経新聞の記事によれば、スクラップ工事主が、すでに解散し清算法人となった日本文化住宅協会だったとある。最後の最後まで武蔵製作所跡地から利益を得ようとした執念だろうか。同記事では日本文化住宅協会について特段言及されず、いかにして工事主となったかについては一切触れられていない。

おわりに

ここまで、かつて軍需の町であった武蔵野町が戦後どのように軍に対して向き合ってきたのか、中島飛行機武蔵製作所の跡地をめぐる様々なアクターの行動や態度を通じて検討してきた。戦前、日本の軍用機エンジンの3割を製造する工場であったことから武蔵製作所は、米軍による爆撃目標となり、従業員、周辺地域に住む人びとは被害を受けた。

戦前に軍需の町であったことは戦後の武蔵製作所跡地の変遷にも影響を与え、さらには戦後の武蔵野市のありかた、人びとの暮らしにも影響を与えることとなる。武蔵製作所西工場跡地を中心に、その南側部分、また東工場の北東部分、製作所正門東側部分を併せた約13万㎡の敷地が、1953年12月に米軍に接収され米軍宿舎・グリーンパークとなったことが、その後の武蔵野市に住む人びとの暮らしに大きな影響を与えたのである。

武蔵野に米軍宿舎が建設されることがわかったとき、いてもたってもいられなくなった人びとは動き出し、市長を先頭に建設反対運動が展開した。すでに「基地の街」となっていた立川の状況は伝わっていた。人びとが「風紀の乱れ」に懸念を抱き動き出したことも知っていた。さらに米軍機の墜落という惨事が起きた砂川のことも知っていた。基地が存在することで日々の暮らしが脅かされる。何としても阻止しなければ。こうした人びとの強い意思が起こしたのが建設反対運動だった。軍が軍として機能する中で自分たちの暮らしが脅威にさらされることは何としても阻止したかったのである。

だが結局、建設阻止の運動は敗北した。その原因は様々なものが考えられたが、建設用地が国有地だったこと、既存の建物が敗戦後に戦勝国への賠償工場に指定されていたこと、そしてそこに日米安全保障条約、日米行政協定が調印され、日本はアメリカに軍事基地を提供しなければならなかったということ。これらが敗北の理由だった。軍事関連施設の中島飛行機武蔵製作所が武蔵野に存在したことが戦後にも連続して影響を与えたということである。そして人びとの意思より国家の意思が優先され、宿舎は建設された。

宿舎建設が進められたのは冷戦状況の只中であった。こうした中で、近隣に住む人びとは、米軍宿舎の地下工事を核戦争のための工事ではないかと危惧するほどに軍事的脅威をリアルに感じていた。その一方で、軍関係者向けの商売に勤しむ人びともいた。このように米軍宿舎建設の現実を直視した時の人びとの態度、行動は一様ではなかった。同時に政治レベルの交渉をあきらめたわけでもなかった。

そして、人びとは他地への移転を求める運動を再度、展開する。1972年に米軍は武蔵野から撤退する。宿舎は横田へ移転し、グリーンパークのあった土地は1973年に返還された。この結果は、日米合同委員会が決定したものであり、人びとの運動の力がどの程度影響したかはわからない。だが、人びとが自分たちの暮らす町から、米軍施設をなくしたいという強い意思のもとに起ちあがり行動を起こしたという事実に変りはない。

ここから見えてくることはなんだろうか。人びとの自身の暮らしを守りたいという意思の強さである。暮らしの脅威となるものへの危機感は人びとを突き動かした。また、脅威を完全に消し去れなくとも、日々の暮らしを守るための最善をつくし、そしてあきらめずに脅威をなくす努力をし続けたのである。

だがここで、人びとが自身の暮らしを守るため、脅威となる存在をはねのけようとしたときに起きた別の問題について考えておく必要があるのではないだろうか。1952年の米軍宿舎・グリーンパーク建設時、武蔵野の人びとが懸念したのは単身の将校が宿舎に入舎した際に生じるだろう問題であった。近くには学校がいくつもあった。子どもたち、女性が危険にさらされることは避けたかった。建設反対運動としては敗北したが、人びとの闘いは米軍を動かした。米軍は妥協案として、グリーンパークを婦人将校と家族持ち将校の限定入舎としたのである。だがこれによって一般兵舎は大和村(現在の東大和市)に変更されることになった。大和村も武蔵野の運動に呼応し全村挙げて反対運動をしたが、結局、大和村に兵舎は建設された。

1966年になり、米軍施設が郊外へと移転し始めた状況においてグリーンパークの3施設の他地への移転を求める運動が展開される中、「他の場所に移して住民のため利用して欲しい」との請願が出された。結果として、グリーンパークに居た将校らは横田基地に建設された新兵舎へと移転していった。

これらの出来事を現在の私たちはどのように受け止めるべきなのだろうか。もちろん、人びとが最終的な方針決定に及ぼすことができる力はごく限られたものだろう。だが、ここで考えなければならないのは、力の大きさ、効果の程度の問題とは性質が違うものである。自分たちの暮らしを守りたい、という思いは誰の中にも根源的にあるものだろう。そのような思いが突き動かす人びとの行動力がさらに大きな力となるためには、各地に湧き起こるこうした思いと思いをいかにつなげていくかということになるのではないだろうか。そこでは、どこかの人びとの暮らしのために他のどこかの人びとの暮らしが脅かされないようにしなければならない。

いま、私たちは、戦後の長い間、先送りにされてきた課題―安全保障のあり方、自衛隊のあり方―に一人ひとりが向き合わざるを得なくなっている。軍の存在に正面から対峙しなくてはならなくなっているのである。こうした中で、軍が私たちの暮らしを脅かす存在だと受け止めるとするならば、それが多くの人びとの結節点となるようなつながりを作っていくことが、過去の人びとから今の私たちが学ぶべきことなのではないだろうか。過去から学び、横へとつなげるという時間と空間を越えた運動の広がりを願ってやまない。


(19 脇坂前掲書、pp112-113。
(20 脇坂前掲書、p114。
(21 同上、p126。
(22 同上、p118。
(23「環境浄化」という言葉は当時よく使われていた。ここで「浄化」の対象とされているのは売春や暴力、賭博行為などである。こうした職業や事象が現れるのには構造的要因がある。そうしたことの思考を停止してしまいかねないことから環境浄化という言葉には鉤括弧をつけた。他方で、「環境浄化」という言葉が同じような文脈で多用されていたことについては、当時の人びとの意識を理解する上でも、改めて検討する必要がある。
(24 脇坂前掲書、pp127-128。
(25 同上、p128。
(26 武蔵野市前掲書、pp412-413。
(27 脇坂前掲書、p130。
(28 同上、p136。
(29 同上、p138。
(30 脇坂前掲書、p138。
(31 同上、p140。
(32 武蔵野市前掲書、p409。
(33 脇坂前掲書、p153。
(34 脇坂前掲書、p179。
(35 同上、p191。
(36 同上、p191。
(37 武蔵野市前掲書、p419。
(38 同上、p409
(39 同上。
(40 日本文化住宅協会と国との法廷闘争は以下の通り繰り広げられた。一審:1956年6月、国が勝訴。二審:1958年11月協会が勝訴。最高裁が1961年5月審理不尽で差し戻し。東京高裁、67年9月協会勝訴。最終的に、最高裁1969年7月「国は信義誠実の原則に反する」として協会の言い分を認め、所有権は協会へと移ったが、D地区に米軍宿舎が建設されてから既に16年が経過していた。長沼前掲書、p17。
(41 武蔵野市前掲書、p410。
(42 グラントハイツは、敷地183万平方メートル。旧日本陸軍飛行場跡を1948年から米軍家族住宅施設として接収。講和条約締結後は日本側が安保条約に基づき提供していた。1971年当時、芝生に囲まれた住宅1486戸のほか、教会、倉庫、マーケット、軍用郵便局があった。毎日新聞1971年8月19日夕刊(1)。
(43 武蔵野市前掲書、p410。
(44 武蔵野市前掲書、p440。
(45 武蔵野市前掲書、市議会米軍施設対策委員会資料より。
(46 同上、p411。
(47 同上、p410。
(48 同上、p410。
(49 D地区の北西側は米軍に接収されなかった。富士産業の退職者が設立した会社のひとつであった中島機械工業が、この部分の土地を払い下げられ取得している。だが、その後、事業が行き詰まり、同地の北側部分は、1952年3月に別子鉱業に売却された。同社はその直後に住友金属鉱山と社名を変更しており、同地に技術部研究所を開設したが、1965年に市川市へ移転した。南側部分は、合金鉄や塩化ビニールを主力製品とする鐵興社が1957年5月に取得。中央技術研究所や社宅として使用していたが、1974年に同研究所は神奈川県綾瀬へ移転。その跡地を大成建設が買い取った。文化住宅協会は、D地区と国有地のA地区とこの大成建設が買い取った鐵興社に大規模な高層住宅を建設しようとしていたのであった。結局、1977年に住友金属鉱山、大成建設両者の土地は東京都が取得することになる。そして1978年、都立武蔵野北高校の建設工事が着工。79年4月より都立砂川高校内の仮校舎で一期生の授業が開始された。長沼前掲書、pp18-19。
(50 読売新聞1974年8月18日、武蔵野版(16)。
(51 公園化の要望は、実は米軍3施設のどれについても市民の要望の1位にあがっていた。市が実施した3施設跡地利用の市民の意見の集約結果は以下のとおりである。
【D地区:米軍宿舎用地】緑地公園:44.2%、公営住宅:26.9%、体育施設:4.6%、市立病院:4.0%、学校施設:2.7%、教育文化施設:2.5%、その他:15.1%
【B地区:米軍消防署用地】緑地公園:22.1%、公営住宅:14.3%、消防施設:8.5%、体育施設:7.7%、福祉施設:6.4%、公会堂:5.3%、その他:35.8%
【C地区:アメリカンスクール用地】緑地公園:26.4%、体育施設:15.5%、公営住宅:13.8%、学校施設:12.8%、教育文化施設:6.3%、市民センター:4.1%、その他:21.1%( 「市報むさしの 」昭和47年6月1日」)。
(52 武蔵野市前掲書、p411。
(53 朝日新聞1973年5月11日(22)。
(54 読売新聞1974年9月18日、武蔵野版。
(55 読売新聞1974年9月18日、武蔵野版。
(56 朝日新聞1975年12月16日(14)。


参考文献

著書・論文(五十音順)

夏季市民講座記録の会/武蔵野市教育委員会『戦争と平和を考える 戦争と武蔵野市―中島飛行機を中心に―』。

長沼石根(2001)『季刊 むさしの 中島飛行機武蔵製作所物語 』

永野義記(2006)『住宅政策と住宅生産の変遷に関する基礎的研究―木造住宅在来工法に係わる振興政策の変遷―』。

脇坂勇(1988)『八幡町ものがたり-ある都営住宅の戦後史』

団体・組織

『富士重工業三十年史』(1984)。

武蔵野市(1995)『武蔵野市百年史 資料編Ⅱ 上』。

定期刊行物

●一般紙:『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』『産経新聞』

●市報:『季刊むさしの』

著者ブログ●「猫が星見たー歴史旅行」
http://nekohoshi.hatenablog.com