重慶大爆撃は何だったのか…東京大空襲、広島・長崎へつながるもの

会場での重慶大爆撃の展示

会場での重慶大爆撃の展示

「ゲルニカ・重慶・ドレスデン・東京・広島・長崎」このように空爆を考えるフレーズを作って広めたらどうだろうか。8月6、9日の「ヒロシマ・ナガサキ」は核兵器の惨禍を伝えるものとして特別な意味がある、と思うが、さらに空爆という攻撃自体が非人道的なものであり、そして空爆の残虐性・違法性を改めて共通認識とさせる必要があるのではないか(戦時国際法のなかでは法規として定まっていないが、空襲は慣習として非戦闘員保護や軍事目的・目標に限るなどは了解されている)。

8月12日、月島社会教育会館において「重慶大爆撃は何だったのか」という講演があった。「平和をねがう中央区民の戦争展」の一環だ。軍事評論家で「重慶大爆撃の被害者と連帯する会」代表の前田哲男さんの話を聞きながら改めて考えた。

重慶大爆撃は国民党の政府があった重慶に対し、1938年から1943年にかけて日本軍が断続的に218回行われた無差別爆撃で、死傷者は6万人を超える、という。

講演する前田哲男さん

講演する前田哲男さん


■前田哲男さんの話

広島の前に重慶大爆撃がありました。それ以前も南京や漢口(武漢)に対しても空爆がおこなわれました。空からの戦争史としての日中戦争は、これまであまり考えてこなかったように思います。南京や平頂山など陸の事件や戦いがありましたが、把握できなかったのは米国、中国、日本にそれぞれの理由があります。

まず日本では、それこそ当時の日本の報道では、連日に渡って重慶大爆撃の報道がなされていました。それなのに戦後は加害については、なかったことにしたい。忘れたいという意識が一貫してあります。

中国側の事情としては、日本の敗戦後に国共内戦が始まり混乱が続いたことです。破れた国民党はそれこそ政府が重慶にあり、資料が散逸しました。60年代には文化大革命がありました。80年代からようやく中国での研究が始まるようになったのです。

米国にとって、東京裁判では南京事件が起訴され、証言もあり軍指導者などが裁かれました。ところが重慶爆撃は起訴されませんでした。当然ながら、無差別爆撃を考えるときに米軍のおこなった東京や広島、長崎の爆撃の問題が問われざるを得ない、それで意図的に起訴せずに隠されたのです。それによって日本にも知られることがありませんでした。

私は重慶爆撃の年に生まれているので、不可分になっている気がします。86年に重慶に行きました。ちょうど研究が始まったときです。日本でも防衛庁の図書館が公開され、当時の日誌などが残っていました。現地の証言と日本に残された記録を合わせて本を書きました。

現地では、被害者たちが日本に謝罪と補償を求めなければならないという気運が盛り上がり、2006年に裁判に提訴しました。私はその裁判のお世話や日本での交流をすすめてきました。一審、二審と敗訴して、最高裁判所に上告しています。審理をしないので棄却されてしまう可能性は高いでしょう。

飛行機から爆弾を落としたのはいつからだったでしょうか。ライト兄弟の時代から少しありました。日本は場合は第一次世界大戦に連合国として参加して、ドイツが占領していた中国・青島を攻撃しています。陸軍が指揮する航空隊の最初の攻撃だと思います。1931年の満州事変で関東軍は遼寧省錦州を空襲しました(錦州爆撃)。市街にも攻撃し一般市民に被害が及んでいます。のち国際連盟により派遣されたリットン調査団により報告されています。無差別爆撃だったのです。

日本の航空戦略の対象は中国でした。蒋介石の政権は上海から南京、武漢と退却し重慶まで撤退しました。日本軍は陸軍が主力で占領していきましたが、もう不可能です。3千メートルの山があり、大軍が動かせない。長江は武漢を過ぎると急流と暗礁があり、軍艦も遡れない。飛行機しか対応できないのです。37年に南京、38年に武漢に飛行機を飛ばして攻撃しました。

1939年5月3日、4日が重慶において記憶される日です。海軍航空隊による爆撃で、大きな被害をもたらしました。日本軍の記録では市街地を4つの区画に分けて攻撃計画を立てました。無差別都市爆撃であることは明らかです。二日間で約8千人がなくなりました。ゲルニカと比較しても(1600人)、桁外れの死傷者です。

この要因については、当時の人々は総力戦の実態を知らなかった。戦争といっても地方の人には未知の領域で、実感できなかったのです。民衆は他人事のように空襲を見学していた、という話です。また、日本軍も相手を殲滅しようとする密度の高い爆撃だったのです。

その後は防空壕がつくられて、避難するようになり、人的被害は減っていきました。それでも1941年6月5日に起こった事故は語りつがれています。空襲警報が鳴り、公共の防空壕に皆避難していました。たまたま郊外に行った人々が戻っていて、すし詰め状態でした。換気扇が作動せず、さらに人々が出入口に殺到して亡くなりました。死亡者数は正確には不明ですが、米国の雑誌「LIFE」に掲載された、防空壕での死者を運んでいる写真が有名です。6月5日に慰霊祭が開かれています。

ゲルニカ市民に対して90年代にドイツ連邦大統領が謝罪しており、ドレスデンについては街が再建され、復元にあたってルターの建物に英国のNGOが十字架を寄贈したり、英国国王の王族が慰霊式典に謝罪の意味で参加しています。

日本では日中共同声明で、中国政府は戦争賠償の請求を放棄していますが、民間ではそうではありません。一般的に国際法において被害者の請求権は失われない、という理解です。

米国が日本の空爆に踏み切ったのも、日本の空爆の事例を踏まえて、無差別爆撃の抵抗がなくなったからではないでしょうか。その意味で重慶大爆撃と東京大空襲はつながっているのです。現代でもイラクやシリアで空爆がおこなわれて一般市民に被害が及んでいます。今日の問題として過去を学び考える必要があるでしょう。
(文責編集部)

重慶以前の南京における空爆の写真も展示

重慶以前の南京における空爆の写真も展示


会場のパネル展示を注視する人たち

会場のパネル展示を注視する人たち。講演を理解する助けとなった


■参考
重慶大爆撃対日民間賠償請求訴訟原告団
http://www.anti-bombing.net/
重慶大爆撃被害者と連帯する会・東京
https://blog.goo.ne.jp/dublin-ki/e/be46de1aef1ecb9a97d565f5fbbc1d31