布靴を並べて中国人強制動員犠牲者を追悼
11月19日(火)東京・芝公園23号地において「遺骨発掘70周年記念 中国人俘虜洵難者日中合同追悼の集い」が開催された。中国から遺族・幸存者・宗教者らも来日して参加した。日本政府の『外務省報告書』によれば、第二次大戦末期に中国人4万人が全国135ヶ所の事業場に強制連行され、そのうち、6830名が亡くなっている(実数はこれより遙かに多いとも…)。
中国人の遺骨は、在日華僑、在日朝鮮人、宗教界、友好団体、労働団体などによる遺骨送還運動によって中国に送られたが、なお多くの遺骨が日本の山野には放置されている。 1949年8月に秋田県大館市花岡(現・ 大館市)での中国人強制連行者の遺骨発掘から2019年は遺骨発掘70年である。第1回の「日中合同追悼の集い」は2009年に行われた。
中国から強制連行され、帰ることも出来ずに亡くなった中国人のために6830の靴を並べられた。中国では身内が亡くなると、遺族が靴(布靴)を用意し、それを死者に履かせて弔う習慣がある、という。
会場となった芝公園では受難者名録壁(拓本)や花岡事件の絵画が掲げられ、布靴が並べられた。12時から追悼の集いが行われ、黙祷のあと、主催者を代表して一橋大学名誉教授 の田中宏さんが「日本で死亡した中国人俘虜殉難者は靴を履かないまま帰国せざるを得なかった。靴を履いて安らかに旅立ってほしいと願い、靴を並べた。1953 年に花岡から殉難者の遺骨を返還する際に倣って、今回初めて庭儀として導師を 先頭に遺族が入場する儀式を行なった。強制連行を閣議決定した日本政府の責任 を追及していく」とあいさつした。
その後は遺族代表の韓建国さん、三菱被害労工遺族代表、在日華僑代表の方々のあいさつが続いた。その後追悼の歌唱、舞踊と演奏が披露され、市民団体からの訴えの後、アピールを採択。最後に参加者全員でインターナショナルを歌って終了した。中国からの参加者は、その後大館市に向かった。花岡町でもやなり強制連行の中国人労働者を追悼する法要・集いが行われた。以下は「秋田魁新報」の記事。
強制連行の労働者供養 大館・花岡、日中僧侶ら参列
戦時中に花岡町(現大館市)の花岡鉱山などに強制連行されて亡くなった中国人労働者を悼む日中合同の法要が20日、大館市花岡町の十瀬野公園墓地で開かれた。花岡で中国人の遺骨が見つかり70年となることを受けて行われ、遺族や日中の僧侶ら約100人が参列した。日中友好宗教者懇話会(山田俊和会長)とNPO法人花岡平和記念会(川田繁幸理事長)の主催。
中尊寺(岩手県平泉町)の貫首(かんす)でもある山田会長(75)に続き、中国の僧侶らが経を唱えた。参列者は、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑の周りに遺影を置いて焼香。慰霊碑から親族の名前を見つけて涙ぐむ人もいた。山田会長は「遺族の姿を見ると、悲劇を二度と起こしてはならないと改めて思う」と語った。
法要に先立ち、遺族らは福原淳嗣市長を表敬訪問。祖父を花岡で亡くした韓剣峰さん(42)は遺族を代表し、「日本のたくさんの友人が各地に分散する殉難者の遺骨を捜し集め、中国に送還することに苦労してきた。現在も多くの遺骨が散在し、祖先の魂が帰れるよう努力し続ける」と述べた。
18日には、都内の寺でも法要が行われた。同懇話会などによると、戦時中は国内の炭鉱や造船所などに連行された中国人が労働を強いられ、栄養不足や過労で死亡する人が相次いだ。1945年6月30日には、鹿島組(現鹿島)花岡出張所で労働者が一斉蜂起した「花岡事件」が起こった。花岡で亡くなった犠牲者の遺骨は49年に初めて見つかり、遺族支援団体や仏教関係者らが送還に協力してきた。(「秋田魁新報」電子版 2019年11月21日)
https://www.sakigake.jp/news/article/20190701AK0013/
(本田一美)
■参考
強制連行犠牲者を「靴」で追悼 東京で日中合同の集い(ヤフーニュースより)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191226-00010001-kinyobi-soci
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