高知における市民たちの平和のとりくみを訪ねて

平和資料館・草の家のHPより

平和資料館・草の家のHPより

きっかけは、昨年暮れの731部隊犠牲者遺族を支える会例会後の二次会での、酔っ払い同士のちょっとした提案だった。そろそろ何か我々の会としても調査活動みたいなことが必要ではないか。中国に行くほどの元気も時間も情報も、今のところないね。高知の元731部隊員が証言しているらしいよ。聞き取りに行ってみようか…。

後日、事務局長の根岸さんから、あの話は本当に進めていいのか、というメールをもらい、私(鳥居)と南弁護士が、重い腰を挙げた。新年になって1月5日夜から7日の間の短い旅だったが、中身の濃い交流と調査ができた。

高知市から四万十市へ 途中、黒潮町で休憩

高知市から四万十市へ
途中、黒潮町で休憩

731部隊ハイラル支部の足跡を追う
731部隊の支部は、「大連衛生研究所を含めて5つの中心支隊・機関が存在し、その支隊に高知県人で編成されたハイラル支部(543部隊)があり、4名の部隊員の「ネズミを捕まえ、飼育する」「ネズミを入れる籠を作り、この籠にペスト菌を注射したネズミを入れて731部隊に送った」との証言も熱心に読んでいた。そして、林口に「162部隊」(香川県出身)、孫呉に「673部隊」(徳島県出身)、牡丹江に「643部隊」(愛媛県出身)などの各支部があり、731部隊が四国4県の兵士らによって支えられていた。」(五井さんのブログより)

現地では、高知新聞の真崎裕史記者や「平和資料館・草の家」の副館長・岡村啓佐さんが積極的に聴き取りを行っており、高知周辺に数名のハイラル支部の部隊員が証言している。今回の高知訪問も、岡村さんにコーディネートをお願いしていたが、残念ながら岡村さんは、インフルエンザに罹ってしまい、今回は私たちだけで証言者を訪問することになった。その件に関する報告は別稿に譲るとして、ここでは、快く私たちを受け入れてくれた高知の市民運動の拠点、「草の家」との交流について述べたい。

高知の夜
6日の昼に所期の目的を達し、夜は今回の取材の段取りをつけてくれた「草の家」の面々との懇親会に参加した。はりまや橋の近くのホテルから、案内の太田紘志さんについて高知城に向かって歩き、ひろめ市場へ。様々な店が周囲に乱立し、その中心に屋台風の席が並ぶ。その中でも草の家御用達の魚料理のお店から注文。高知名物のカツオ、ウツボなどに舌鼓を打ちながら楽しく交流した。

ひろめ市場で懇親会

ひろめ市場で懇親会

館長の岡村正弘さんとその奥さんは差し向かい。端に席を取った共同代表の出原さんは考古学を専攻し、今年8月に予定されている戦争遺跡保存全国ネットワークの高知大会の準備に忙しい。二次会は歌声喫茶に滑り込み、閉店間際に一曲唄う。三次会は太田さんなじみの小料理屋。高知の運動について熱く語る太田さんの背中を、奥の部屋にぞろぞろ入店する人たち。なんと先ほど歌声喫茶にいたスタッフさんたちではないか。街中の何気ないお店のそれぞれに、高知の抵抗運動の息吹を感じる夜であった。

「草の家」訪問
翌日は、土電(東京なら都電だが、高知の路面電車は「とさでん」略して土電という)に乗って草の家に向かう。降車場で太田さんと落ち合い、草の家まで案内してもらう。

草の家玄関。隣は西森氏宅

草の家玄関。隣は西森氏宅

草の家の前に立って驚いた。家の半分が切り取られているのだ。これは初代館長・西森茂夫さんの自宅である。隣の4階建てビルの1、2階が草の家。上の2階は運営費を捻出するためにワンルームマンションとして貸している。このビルを建てるために家を半分切り取るという、故西森氏の心意気に感激する。

1階は舞台とピアノ付きのホールになっており、退職教員のカラオケ大会や中国残留孤児の帰国者の集まりなどにも利用される。周りには戦争の遺物や空襲関係のパネル、関連書籍などがところ狭しと並んでいた。そこで岡村館長のお話を伺う。

岡村正弘館長

岡村正弘館長

高知の平和運動と草の家
1979年、高知に空襲があった事を知らない人が増えたという事で、高知図書館の分室を借りて、高知空襲展を開催した。初日に1500人、一週間で8000人を超える見学者を集めた。

それを続けていく中で、常設館がほしいという事になって、10年目の1989年、高知市が市制100年ということで記念行事の一つとして市民の要求に答えて、自由民権記念館をつくることになった。市民と行政が一体になって進めてきた運動ではあったが、構想が固まってくる中で、戦争展のような内容はできないということになって、独立して1989年11月に草の家を創立した。自由民権記念館も数カ月後に設立。

自由民権記念館正門

自由民権記念館正門

当初から記念館と草の家とは関係を深めてきた。草の家の会員は600人いる。作るときにカンパをしてくれた人を中心に新しい人も入り、県外からも会員がいる。年会費3000円を払うと、年4回の会報が送られてくる。

ここができた時に、3つの方針を決めた。加害と被害と抵抗を基本に据え、調査して、展示・出版活動をしている。発足直後に「中国平和の旅」を行い、その後都合8回行い、ブックレットも作成している。私自身は1937年にこの近くに生まれ、8歳の時に空襲に会い、焼き出された空襲体験者である。私の話を聴いてくれた人が、紙芝居にしたらよいということで、紙芝居にして学校などで講演をしている。

加害の証跡、731部隊
加害の方は、主に中国を訪れてきたが、韓国にも東南アジアにも訪れた。中国では、一回の平和の旅で一週間くらい、細菌戦に遭ったあちこちの村に聴き取り調査に入ったりしている。東京での裁判にも結審の時には行った。裁判は結果的に負けたが、私も現地の人たちの証言を現地に行ってたくさん聞いてきたことなども、語り部として話をしている。

去年、侵華日軍第731部隊罪証陳列館から見学の申し出があり、館長の金成民さんを含めて4名が訪れ、交流、更に自由民権記念館で講演し、私たちとも対談をした。その際、マスコミや自治体に後援を依頼したが、高知県はその依頼を断った。そのことを高知新聞が大々的に取り上げてくれた。講演は超満員の観客を集めて大成功。後に高知県が後援をしなかったことは考え直す必要があるという談話を発表した。後援を断る決断をしたのは、中央から来た若手の担当課長だった。

6月には逆に招待を受けて草の家が陳列館を訪問。姉妹館のような文書協定を記した。今後の調査を進める上でも、お互いに協力が必要だということで、今年3月にはまた訪問を受ける。

高知の空襲展
高知の空襲の事は、写真集にしたり本にしたり、パネルにしたり、いろいろな方法で市民に知らせる活動をしている。

 高知空襲のパネルを背に話す

高知空襲のパネルを背に話す

空襲展は今年で37回目になるが、一つのものを繰り返しているが、新しいものを出すのが難しい。そこで、「戦争と平和を考える資料展」ということで、ほかの問題とも併せて展示をするようにして、毎年7月4日を挟んで一週間展示をするようにしている。その時々。憲法であったり、沖縄であったり、手広く行っている。今は参加者が少なくなっているが、それでも600人くらいは来てくれるので、大事だと思って続けている。

槙村浩の事
抵抗というは、「不屈に生きた土佐の友」ということで、全国には小林多喜二のようにいろいろ弾圧された人がいたが、高知県の人を中心にして、聞き取り調査をしたり、資料を集めて、資料展の時にもコーナーを設けて展示をしている。この中でも秀でているのが、槙村浩という人がいる。この壁の向こうが第6小学校。ここに吉田豊道、後の槙村浩が2年生の時に引っ越してくる。その時に小学校ですでに教えることがないというぐらい優れていて、支那論を書けと言われて、滔々と中国の歴史について記し、当時の土陽新聞にも「神童」と紹介される。そこでたまたま高知を訪れた久爾宮の前で御前講義をせよとなった。これを嫌った吉田は、アレキサンダーについて説明せよと言われて、アレキサンダーというのはどこのアレキサンダーですか、いろいろいますよ、と逆に切り返した。筋金入りの反天皇制主義者で、海南中学に入っても授業は受けずに県立図書館通いをしてほとんどすべての本を読破(本の読み方は、あたかもめくるごとし)、1925年に始まった軍事教練もさぼる、教官に抵抗するということで高知を追放、岡山の関西中学に転校する。そこを卒業して帰ってくるのが柳条湖事件のあった1931年。高知には日清戦争の後に、県の誘致に従って陸軍歩兵第44聯隊がいた。その兵舎に夜中に忍び込んで反戦ビラがまかれたが、その原稿を槙村が書いたという事で、翌年4月21日に逮捕、35年6月に出所するが、高知刑務所に収監される前の留置場での7ヶ月間に受けた拷問が元で、拘禁性鬱症、食道狭窄症など、いわゆる「監獄病」を患う。1936年には再び逮捕されるが翌1月には重病で釈放、翌38年9月3日入院先の土佐脳病院で死亡する。出獄中の一時期、貴司山治宅に匿われていた時期に詩編を作成していた。

筆者は、後に貴司山治の事を調べたら、彼は吉祥寺に住んでいたとあった。そこで地元の護憲団体の会計の方に貴司山治の事を聞いてみたら、なんとびっくり、その方の義父であったことが判明。「我が家に一時期、槙村浩がいたそうよ」とのこと。それらの詩編は、戦中の貴司宅の庭に埋めて隠し通し、戦後発掘されたそうだ。因みに、貴司氏のお宅には小林多喜二も訪れたことがあったという。

槙村浩についての演劇公演のポスター

槙村浩についての演劇公演のポスター

戦争遺跡の保存
南国市に掩体壕(えんたいごう)★がある。南国市は、一年に二度お米が取れるということで、一帯に広く田んぼがあった。真珠湾攻撃を行った41年の1月に、そこに海軍の航空隊基地が設置される。近隣農家は半ば強制的に土地を提供させられた。戦後、軍隊の解体にともなってほとんどの土地は持ち主に返されたが、空港と高知大学の敷地だけは、高知県に残された。その名残で、40以上あった飛行機を格納する掩体壕のうち、コンクリート製で厚さが80センチ以上あり、取り壊しにくい7基が残った。それを私たちの運動で文化財として保存するよう要望、南国市が認めて史跡として保存することになった。

海軍の北兵舎の一部が高知大学の森の中にあるということで、70年経った。最近、その埋蔵文化財包蔵地で大きくなった木が切り取られるという情報が草の家に入り、その地下に建設された海軍の耐弾通信所の保存を求めて運動した。その結果、2013年に試掘調査が実施され、内部がほとんど当時のままの良好な状態で残っていることが判明、保存されている。

今年の8月には、戦争遺跡保存全国ネットワークの全国大会が、高知で開催される。
写真(1)写真(2)

写真(3)内部

写真:上は田んぼの中にぽつりぽつりと見える掩体壕。中は車の窓から2基。中は道から最も近い所にある。下はその内部

「草の家」のスクープ
2011年10月27日、草の家が大々的に記者会見を開き、明らかにしたのは、中曽根康弘元首相が海軍主計長(中尉)の時、インドネシア・ボルネオ島のバリクパパンに慰安所を開設した事実を明らかにした。その事を示す防衛省所蔵文書は、「海軍航空基地第2設営班資料」。

同資料によると、中曽根は、部隊が現地女性を襲うなど乱暴狼藉を働くので、自ら現地の女性を集めて、慰安所を創ったという。同資料を発見した草の家では、記者会見を開くとともに中曽根自身に、この文書に出てくる「中曽根康弘」というのは、貴方の事ですか、という質問状も出している。

これからの展望
若い人にこのような運動をどう引き継ぐか、という問題はどこにもあることだが、草の家も例外ではない。最近は高知大学にも平和に関心のある人が増えているが、大学生は卒業しても地元に定着しない。結局、退職者中心の運動にならざるを得ない。

そんな中でも、沖縄の基地問題などに取り組む学生たちとの交流も進んでいる。南弁護士から、今の学生は、戦争は過去のものという認識から、自分たちの身に降りかかる今の問題として取り組めるのではないか、という問題意識の共有が提案され、大いに共感を呼んだ。

その後、太田さんに高知龍馬空港まで見送っていただく道すがら、自由民権記念館の見学と空港近くの掩体壕の見学にもお付き合いいただいた。

今回の訪問は、731部隊の支部の体制や実態、その内容について、事実を知る端緒を築くことができたという意味で、大きな一歩を歩むことができた。これから現地とも連絡を取りつつ、継続的な聴き取り調査が必要であることを確認する。また、今回はごく短い調査期間の中で、高知の731のネットワークを明らかにしたもうひとつの柱である高知新聞社との交流ができなかったことは、残された課題である。

一方、自由民権運動の発祥の地である高知の市民運動と交流ができ、その息吹を感じ取ることができたことは、私たちにとっても大きな励みになった。713部隊研究に限らず、より大きな平和運動の枠組みの中で、草の家をはじめ、高知の市民運動と今後も交流を重ねていくことは、大いに意義深い事と考える。当面は、3月の金成民氏らの土佐への訪問に合わせて何かできることはないか、を追及するとともに、個人的には8月の戦争遺跡保存全国ネットの大会への参加も考えている。

今回の高知訪問に当って、受け入れ体制をつくってくださった平和資料館・草の家の岡村館長はじめ皆さんのご協力に感謝する。とりわけ、当日までの準備に奔走してくださった岡村啓佐さん、当日、インフルエンザの岡村氏に代わって最初から最後までお世話くださった太田紘志さんには、一方ならぬお世話になった。改めて感謝の意を表する。
(鳥居 靖)

注★掩体壕(えんたいごう)は、装備や物資、人員などを敵の攻撃から守るための施設である。掩体、掩蔽壕(えんぺいごう)、掩壕とも言う。 通常はコンクリート製で、少ない資材で大きな強度が得られるかまぼこ型をしている。

参考:平和資料館・草の家↓
http://ha1.seikyou.ne.jp/home/Shigeo.Nishimori/