「砂川闘争」後の地域と平和を考える―米軍基地の「返還」を問う

集会チラシ

集会チラシ

沖縄・辺野古のような闘争がかつて東京にもあった。「砂川闘争」である。1955年に立川駅すぐそばにある米軍基地が、北へ拡張されるという計画が出た。その町が砂川町だ。町民は反対の総決起大会を開催し、基地拡張反対同盟を結成。町長自ら反対を表明し、町議会も拡張反対を決議した。「町ぐるみ」の拡張反対運動に、労働組合や学生たちが支援し数万規模の集会も開かれた。警官隊の暴力により「流血の砂川」という言葉が表すような事態にもなった。

また、たたかいの過程で反対派が米軍の敷地内に入り込んで23人が逮捕され、7人が起訴された。これが「砂川事件」だ。1959年、東京地裁の1審の判決は全員無罪となり、これが「伊達判決」である(これについては過去の記事も参照願いたい)。
「日米合同委員会の密約が立憲主義を破壊している! 」(伊達判決記念58周年集会・報告)

その後最高裁では東京地裁判決を破棄、東京地裁に差し戻した。これについては裁判闘争が継続しており、11月15日に高裁が有罪判決の免訴を求めて再審請求の抗告を棄却した。それを不服として、土屋源太郎さん(83)=静岡市=ら元被告4人が20日、最高裁に特別抗告した)。このように「砂川事件」そのものは実は終わっていない、関わいっていた人々が続けている。

砂川事件 高裁も再審認めず 元被告らの即時抗告棄却(東京新聞 2017年11月15日 夕刊 web版)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201711/CK2017111502000249.html?ref=hourly

砂川事件の再審拒否を伝えるニュース(yahooニュースより)

砂川事件の再審拒否を伝えるニュース(yahooニュースより)

いっぽう土地をめぐるたたかいは、現地闘争としても継続し、1967年の立川基地前での大きな集会では全学連と社・共の政党が対立する構図になっていった。東京都で美濃部都知事が誕生すると土地収用認定が取り消され、いっぽう米軍も1969年に基地移転を発表する。米軍立川基地は、1977年日本に返還された。跡地の大半は国営昭和記念公園、立川広域防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地東部方面航空隊などに転用されている。

しかし土地を守り、米軍と対峙した人たちは、この返還にどう向き合ったのだろうか? あるいはこの返還をどう捉えているのだろうか。立川基地返還後40年を迎えて、それを考える集会「砂川の大地から とどけ平和の声2017」(実行委員会主催)が11月19日、立川市砂川町の砂川学習館で開かれた。

会場参加者も交えて討論会が開かれた

会場参加者も交えて討論会が開かれた

第1部は、立川を含む都内の基地問題を報告した「基地周辺」(72年)、沖縄の基地反対闘争のシンボル的存在だった故・阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)さんの肉声を記録した「阿波根昌鴻 伊江島のたたかい」(98年)の映画2本を上映した。

第2部は、A.トンプキンスさん(レイクランド大学准教授・社会学)、鈴木鉄忠さん(中央大学・社会学)、小多基美夫さん(反戦兵士と連帯する会・元自衛官)、福島京子さん(砂川平和ひろば主宰)らを交えて討論会が開かれた。

トンプキンスさんはかつての基地を捉えて「米軍基地は地図上の空白地域で、日本とアメリカを隔てているものだった」として、現在の基地跡地の緑化計画は一定評価すべきもの、と確認しつつも、現在の昭和記念公園に、農民たちのたたかいの記録は残されたいない、日本政府は「砂川闘争」を隠している、と指摘し、違和感を表明した。

鈴木さんはイタリア・トリエステの国境の研究の経験から、冷戦の記憶を確認する。日本は未だに国境問題が継続しており、尖閣諸島などかつての問題が大きくなっている。そしてそれらの地域に陸上自衛隊の基地がつくられようとしている、と危惧を語った。

小多基さんは 航空自衛官だった記憶・経験を踏まえて、「国際反戦デー」で自衛隊の仲間たちと抗議して、自衛隊内の人権・反戦の問題ととらえ行動してきたことがある。自衛隊内は憲法を踏みにじられていて、治外法権的な存在でもあり、基地にも反戦・平和外のことをシャバと呼んだりして、刑務所のようなところもある。兵士が動かなければ戦争ができない。兵士=自衛隊員にそのような声を届けていく、つなげていく必要がある。運動が必要だという、と使命を語った。

福島さんは、反対同盟副行動隊長の娘として、砂川闘争をずっと見てきた。最初から沖縄との連帯があった、という。第2次闘争のときには阿波根昌鴻さんに決議文を送って、阿波根さんからは絵葉書が届いた。そしてデニス・バンクスが「砂川闘争」に出会ったところでもある、と様々な出会いを語った。

その後は、討論で基地という境界線を超える可能性について、人間がつながる可能性、人間性の共通点を探るということ、阿波根さんの言葉にそれがあるのでは、という話や、自衛隊員という「志願兵」は貧しい家の出身が多い、母子家庭だったりする、など普通の人が自衛隊に行っているという話がでた。

また、立川基地跡地利用については、国が利用し、自治体の利用については昭和記念公園として受け入れさせたという経緯だったり。在日米軍が横田基地に機能が集中されてゆくなかで、立川のような反対運動は横田では弱かった、結果として横田が拡張されていく、など多岐に渡って議論された。

かつての米軍基地の機能を(たぶん沖縄もそうだと思うが)、自衛隊の基地に背負わさせていく。沖縄の基地を軽減させるだけでいいのだろうか。平和は黙っていては無力だ。人々がバラバラでも駄目で分断されると、軍国主義に影響されてしまう。力を合わせて行かなければならない、この集会がその契機になればいいと思う、とまとめではないが、それらの発言が出て集会の時間いっぱいとなった。

会場後ろに、当時を伝える風雪に耐えた「反対同盟」の旗が飾られていた

会場後ろに、当時を伝える風雪に耐えた「反対同盟」の旗が飾られていた

米軍基地の拡張に端を発した反対運動…。それが基地が返還された跡をどうしたら良いのか、どのように対峙・対応すればいいのか、かんたんに答えがでる問題ではないが、そのことを議論し考えていく必要性を感じた。

当日は会場に沖縄・伊江島、横田基地、立川自衛隊移行期のたたかいの写真展示があった。また会場となった立川市砂川学習館の一階脇に「砂川闘争」の資料展示コーナーが常設されている。当時の雰囲気を伝えてくれる、貴重な展示なので機会があれば訪れてほしい。
(本田一美)

集会を伝える新聞記事(毎日新聞 2017年11月18日 Web版)

集会を伝える新聞記事(毎日新聞 2017年11月18日 Web版)

「砂川闘争」を伝える展示。砂川学習館の1階に常設されている

「砂川闘争」を伝える展示。砂川学習館の1階に常設されている


当時の様子を伝える号外新聞

当時の様子を伝える号外新聞


「反対同盟」のたすき

「反対同盟」のたすき


「反対同盟」の手ぬぐい

「反対同盟」の手ぬぐい