生前退位による天皇「代替り」の問題点
2月11日の建国記念の日に柏市で<2019「建国記念の日」反対!2.11東葛集会>が開かれ、伊藤晃さんの講演があった。同じ建物では日本会議主催の建国記念の日の祝賀会も開かれていたようだが、立場の違う集会が同じ場所であるのは面白い。以下は講演の要約である。
伊藤晃さん
【1】2016年8月8日の国民への天皇メッセージの問題点
明仁天皇には象徴天皇制のイメージとそれを安定的に継承したい、という願望があった。これについて2つの議論を指摘したい。
ひとつは天皇像をめぐってリベラル系の擁護派と保守系の伝統主義の批判派があるということ。もうひとつは、天皇のメッセージは政治的発言であり、違憲ではないか。というもの。明仁天皇自身は自分の発言は「象徴としての行為」であると居直っているのではないか。
【2】戦後天皇の出発点
戦後憲法制定時の問題として
1、日本の支配層の「国体護持」に米占領軍の力があり、日本と米国の共同で天皇国家の戦争責任を回避した。
2、日本の人民には大日本帝国憲法を廃棄する運動がなかった。
3、「憲法制定議会」が欠如していた。新しい憲法を旧支配勢力が主導して戦前からの体制と接続させてしまった。それにより「戦前」から「戦後」へ平和的な移行がなされて、その論理を示す「8月革命説」も唱えられた。支配集団は新憲法体制の整備を主導して上から「主権者国民」という民主主義の教育をした。
4、「天皇の戦争責任は法的に問えない」とする論が形成された。
戦前から戦後への平和移行における天皇の動きとして
1・戦時の国民一体を戦後の国民一体へと転換した(1946年1月1日の詔書)。
2・天皇自身が<国民の天皇=象徴天皇>となる努力をした(全国を巡行した)。
3・国民の平和意識や民主主義に適合する天皇像が形成され、ナショナリズムが更新された。
日本国憲法における天皇として
憲法第一条が政治的にはたらいて「国民と内面でつながる象徴天皇」が出発する。その象徴天皇の内容を充実させようとしたのが明仁天皇であった。
【3】近代天皇制の完成形態としての戦後天皇制
近代天皇制は国家機関として現実のはたらきをする天皇であり、「主権者天皇」であった。ただし専制君主ではなく、国家指導集団の自覚的一員でもあった。イデオロギーとしては万世一系の国民の天皇であった。
戦後の天皇制は戦後支配集団にとっての「心のふるさと」であり、国家装置としては天皇と国民を結びつける一体化の形成であった。たとえば社会の具体的な問題を心の問題にした。それは災害や弱者への慰問などとして表れる。また戦没者慰霊などを通じて国民意識を「日本人の歴史」に接続させる。
明仁天皇が公務と称する行動と権力政治との一体化が起きている。そして戦後天皇の戦争責任を平和とすり替える。
【4】生前退位の意図とわれわれのとぶべき態度はなにか
まず生前退位には戦後天皇制を次代に安定的に継承する意図がある。明仁天皇自身にも不安はあり、だからこそ国民の支援を求めている。代替りをめぐって対立もありそれは、現在の天皇のありかたや意見の対立にもとづいている。
われわれにとって本当の問題はなんだろうか。天皇制に関して「国民的行事」と社会の現実性との矛盾があるだろう。
真のあり方とは人民の内面が天皇制から自由になることが本来ではないだろうか。そこへ至る道では、現憲法の解釈と実現形態をめぐって支配層と人民の運動との対抗があり、そこで天皇の問題が浮上するだろう。第1条と第3条以下との矛盾をあばき、象徴としての天皇の行為(公的行為)に対して批判しなければならない。また天皇が現実政治の中でとる「中立的位置」を批判し、戦後民主主義を肯定的にとらえてきた政治勢力や知識人たちの天皇への依存をも批判することになるだろう。そして人民自身の自立的な政治主体として形成や、共和制へ向けた社会的な共同が求められるのではないか。
(いとう あきら)日本近代史研究。著書に『転向と天皇制 日本共産主義運動の1930年代』(勁草書房)など…。
(文責・編集部)