上野誠の版画と戦争責任

上野誠 牛市 1943

上野誠 牛市 1943

戦時中の画壇の状況と上野誠

東京国立近代美術館には153点の「戦争記録画」が収蔵されている。2007年に発行された「戦争と美術」のその大半の画像が収録されているので見ることができる。これらの絵を見れば戦争中日本の画家が雪崩を打って戦争に協力していったことが良く判る。藤田嗣治は最も著名であるが宮本三郎、伊原宇三郎、小磯良平、川端龍子、向井潤吉、猪熊弦一郎、田村孝之介、横山大観などにはじまり、北川民治やプロレタリア作家の岡本唐貴、永井潔、須山計一までが戦争協力画を描いていた。

この当時上野誠は鹿児島の指宿中学の教師をし、引き続き岐阜で青年学校の美術教師をしていた。指宿では農民と牛を主題にした版画や、沈痛な表情で戦況ニュースを読んでいる労働者の版画を制作していた。

当時のことを上野は次のように述べている。

十年間の教師生活中、わたしは面従腹背的生き方をした。情報は極端に規制され、思想の統制も徹底していた。その世界に対応する己に矛盾があることは自覚していた。しかしわたしには頼る最後の一線があった。それは“絵”以外にない。この一線を明け渡して、戦争を讃え協力するような作品はつくるまいと心を固めていた。このわたしに大きな手応えを与えた一同僚がある。反戦の意図で作った“戦況ニュース”を見た彼は「君、これはプロレタリア美術ではないか。大丈夫か」というように囁きかけた。

当時の画壇には「反戦」はおろか「労働者や農民」を描く画家はなく「戦争賛美」一色になっていた。

私は2006年1月31日指宿を訪問し、上野誠の教え子であった中村昭見さんから当時の思い出を聞いた。

上野先生は他の先生とは全く違っていた。当時、私たちは学業をせず、知覧の飛行場の整備に駆り出された。他の先生は木陰で我々の作業を見て指示していたが、上野先生は上半身裸になって私達と一緒にモッコかつぎをした。そんな先生は他にいなかった。

当時中学生でも優秀な子どもは少年航空兵に志願出来た。同級生の一人が応募したのだが、上野先生はその書類を握りつぶし、応募できなくなってしまった。彼はそれを恨み、先生に食ってかかったようだが、戦後同級会の席で彼はこの事実を披露し、「私が今生きていられるのは先生のおかげだ」と感謝した。上野先生はそういう人だった。

中国人虐殺を描く

1932年東京美術学校2年生だった上野誠は共産主義青年同盟の活動に影響を受け、全国労働者組合評議会教育労働者部の学習会に参加。学内問題の改革を要求して開かれた学生大会に参加し7月検挙され退学処分になった。

最晩年上野は当時のことを繰り返し短歌に書いている。

メーデー歌地面を巻きて迫り来つ上野の杜は虚のひま震う
集団の声々こだまし杜は裂け人ら重なりなだれ入るなり
武器持たぬ労働者はひたすらにスクラムの肘もてあらがいにけり
わが自由奪いし刑事ら得々と殺すもよしと唇を剥く
責められて遠くなりゆく意識下にデカの心情許さじと哄う
拷問は極まりにけりふと覚めて母を呼びたりまなこそらせと
学生さんえらいもんだとシャポー脱ぐ前科三犯刺青の人
日もすがら坐せる人あり像の如河上肇博士とぞ独居房
わが組織一人の友にあばかれぬしばし虚となりむなしかりけり

1932年東京美術学校を退学になった上野はミシン修理を手伝ったり、綿製品仕上げ工をしたり友人と仕上げ屋をした後、1934~5年故郷に帰り土方や線路工夫として働きながら須坂市で小林朝治を中心に活動している版画グループを知り版画を習得した。グループのリーダーだった小林朝治は東京から平塚運一を招いて講習会を開いたが、上野もそこに参加した。

この頃、上野は郷里である出来事に遭遇する。

ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。~屠殺場さながらなのもあった。(中略)憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた。

1936年上野は結婚し姓を内村から上野に変えた。

1937年、文部省検定試験に合格し、東京都の小学校代用教員になる。上野誠の家に中国の版画家劉峴(りゅうけん)が平塚運一に紹介されて訪ねてきた。彼は手土産に版画集を持参したが、その序文を魯迅が書いていた。上野は驚き彼に心を開き、自分が隠し持っていた版画を披露した。

この版画を見て劉峴は感激し、二人はそれ以来心を許しあう友人となった。

1937年盧溝橋事件が起こり日中戦争が始まる情勢となったので、劉峴は急遽帰国することになり、その挨拶に上野を訪問した。上野はそのとき何枚かの版画を劉峴に託し、中国に持っていってもらった。そのことを劉峴は次のように書いている。

彼が贈ってくれた二十余枚の木刻作品は、すべて日本労働人民の生活を反映したもので、その中の幾枚かは、わが国の東北人民が日本軍国主義の殺戮下にある情景を描いたもので、深く人を感動させた。これらの創作は、作者の崇高な人道主義の思想を伝えており、わたしは改めて上野誠先生に敬服した。わたしは、これらの木刻作品を上海に持ち帰って中国人民に紹介したら、かならず意義があると考えた。わたしは、当時『文学』月刊の主編だった王統照先生と相談しこれを発表することに決め、わたしの文章を添えて紹介することになった。

ところが、中日戦争の拡大によって刊行物の印刷が縮少されやむなく中止となった。上野の木刻作品をわが国に紹介できなかったのは誠に残念なことであった』(1981 全版画集)

中国人虐殺を描いた版画

中国人虐殺を描いた版画

加害の事実を描いた作品の価値

日本には絵描きはたくさんいるし、平和や民主主義を願い闘った作家もいたのだが、残念ながら侵略や加害の事実を描いた作家は一人もいない。それは戦前に限らない。原爆や東京大空襲の被害を描いた絵は数多いが加害を描いた絵画作品は見たことが無い。これでいいのだろうか?という疑問をわたしは持っている。更に言うならば、これは美術に限らない。教育の世界などを見ればそれは明らかである。

上野誠は原爆の作品を描いているが、その視点は日本人というだけの視点ではなく、虐げられているすべての人民の視点に立っている。それは戦前中国人を虐殺した日本兵を糾弾した視点から全く変化していないことに気がつくのである。

このような絵描きが日本に存在したことを証明するためにも上野が劉峴に贈った版画を探し出したい思いが強く、昨年中国を訪問した。劉峴の娘さんに会うことが出来、行方を尋ねたのだが見つけることはできなかった。版画の実物があれば一番いいのだが、上野誠が戦前戦後を一貫して弱者の視点に立って描いた事実は間違いない。

加害の反省抜きの反戦運動が現在の歴史修正主義をもたらした原因でもあったこと思うと、日本軍の加害を描いた上野誠の作品は今につながっていると思うのである。
(田島 隆)

戦況ニュース 1944

上野誠  戦況ニュース 1944

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上野誠 1979年の写真(没1年前)

上野誠 1979年の写真(没1年前)

(「レッツ」91号の原稿をもとにしています)

上野 誠 略年譜

1909(M42) 長野県更級郡川中島村阿弥陀堂(現・長野市川中島町今里)に父、内村直治・母よりの三男として生まれる。父は阿弥陀堂にて漢方医を営んでいた。
1924(T13) 長野県立長野中学校入学。在学中に美術教師山本俊治の指導による水彩画に熱中。
1931(S6)  東京美術学校図画師範科に入学。夜間、津田青楓の私塾に通い津田,安井曽太郎の指導を受ける。
1932(S7)  学内問題の改革を要求して開かれた学生大会に参加。退学処分を受ける。
1933(S8)  鉄道工夫、土方などの労働のかたわら、北信濃の版画家と交流し、木版画制作を始める。
1936(S11) 上野チイと結婚。姓を上野と改める。チイは湯島天神下にて「ルリ美容院」を経営していた。国画会展版画部で内村誠の名で「こたつ」が初入選、以後1944年まで同展に出品。
1937(S12) 公立中学校図画教員文部省検定試験に合格。平塚運一の紹介で、中国人留学生であった劉峴とであい、彼の勧めで内山書店より「ケーテ・コルヴィッツ版画選集―魯迅編」を購入し、以後版画制作に決定的影響を受けることとなる。劉峴の帰国に際し中国人虐殺を告発した版画を託す。
1941(S16) 恩師、山本俊治の後任として、鹿児島指宿中学校教諭兼舎監となり、一家で指宿に転居。
1944(S19) 山本俊治の後任として岐阜県各務原川崎航空機青年学校の製図教師となり、一家で転居。
1945(S20) 妻子のみ川中島に疎開のため転居。ひそかにポツダム宣言の切抜きを手帳に貼って戦争終結を待つ。12月新潟県の六日市町の七洋工芸社入社。勤務のかたわら、六日町の農民や労働者をモチーフに木版画制作を再開。
1948(S23) 日本美術会会員主催第一回アンデパンダン展に出品。以後継続出品。
1949(S24) 日本版画運動協会が創設され、会員となる。
1952(S27) 自作の版画「戦争はもういやです」をポスターとして丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」の移動展を組織。4月一家で東京上野谷中に転居。
1954(S29)  上野駅ガード下で原水爆全面禁止を訴えている広島の被爆者と出会い衝撃をうける。この経験は広島・長崎の作品制作の原点となる。
1958(S33) 日本版画協会会員になる。駒井哲郎の銅版画講習会に参加し、研究に着手。
1959(S34) ライプチヒ世界平和運動十周年記念国際書籍版画展に「ヒロシマ三部作」を出品、金賞受賞。
1961(S36) 長崎原爆病院を訪問し、被爆体験に耳を傾け、強い衝撃と深い感銘を受ける。この経験をきっかけに、画風が変る。連作「原爆の長崎」に着手。
1963(S39) 流山市松ヶ丘に仕事場を作り、転居。ユーゴスラヴィアにおける日本版画協会展に出品
1967(S43) 東独「ケーテ・コルヴィッツ生誕百年記念国際版画展」で優秀賞受賞(生き残る)
1970(S45) 「原爆の長崎」(平和委員会刊)刊行。ユーゴスラヴィアで「国連発足25周年記念切手」のデザインに「希望」が採用される。
1972(S47) 美術平和会議主催の「沖縄スケッチ旅行」に団長として参加。
1975(S50) 「上野誠版画集」(日本平和委員会)発行
1980(S55) 4月13日、松戸市にて死去、享年70歳。
1986(S61) 郷里長野市にて「上野誠木版画展」開催。
1998(H10) 神奈川県立近代美術館にて「上野誠木版画展」開催
2001(H13) 長野市川中島町に「ひとミュージアム上野誠版画館」 開館

■参考
「ひとミュージアム上野誠版画館」
http://hito-art.jp/