CDを聴き、強制連行された劉連仁さんを偲ぶ

劉連仁さん

劉連仁さん

 韓国・日本で徴用工問題をめぐって、貿易摩擦問題にもなっていることから、pくすの木ではCD『りゅうりぇんれんの物語』を聴く会を行いました。以下はその報告です。

<徴用工の問題でCDコンサートを開催>

 8月は戦争の記憶に想いを馳せる月ですので、徴用とは何か? を考えてみました。国が兵を徴用すれば徴用兵、つまり徴兵で、戦時に民間の船を動員すれば徴用船となります。日本は朝鮮半島を植民地にしたことで、朝鮮人も日本国民、という勝手論で多くの朝鮮人が日本に連行されました。

 また日本軍が中国を占領・支配している地域でも、そこで暮す人々を勝手に日本に連れてきて働かせるということもしました。

 今回のCDは中国人・劉連仁さんを扱ったものです。<沢知美さんの CD 『りゅうりぇんれんの物語』を聴き、強制連行された劉連仁さんを偲ぶ集い>で8月31日と9月1日に複数回開催。場所は山梨・北杜市の「p くすの木」です。

 劉連仁(リュウ・リェンレン)。中国山東省の出身。戦時中に日本軍に強制連行され、北海道の明治鉱業昭和鉱業所の炭鉱で働かされました。1945年7月、仲間の労働者と共に脱走しました。直後に仲間は次々と脱落しましたが、以後13年間、ただ一人終戦を知らないまま山中を逃避行し続けました。

 1958年、当別町の山中で穴ぐらの中に潜んでいる姿を農民が発見、保護されました。その後、故郷へ帰国。1996年、東京地裁に日本を相手取り損害賠償を求めて提訴しましたが、2000年、判決を聞かないまま本人が死去。裁判は劉の息子を原告として継続され、2001年に地裁では勝訴しますが、日本は控訴。2005年、東京高裁は訴えを棄却しました。

 詩人茨木のり子は「りゅうれぇんれんの物語」という詩を書いています。その理由として「りゅうれぇんれん氏が発見された時、新聞の報道は大々的で、当時誰もがこのニュースを知っていた。その渦中であえて書く必要があるだろうか? という逡巡もありながら、内部から衝きあげてくるものがあって、どうしても書かねばならぬという思いに従った。」(『鎮魂歌』童話屋版 あとがき:後藤正治『清冽』中公文庫より重引)と2001年に書き留めています。

 「りゅうれぇんれんの物語」はこの一中国人の歩みを詩句に構成した長編詩で茨木さんの詩のなかでは最長のもので、彼女の第三詩集『鎮魂歌』(1965年)に収録されています。

 沢知美さんの CD 『りゅうりぇんれんの物語』(cosmos records/CMCA 2020/2007年)はこの長編叙事詩を音楽化したもの。
 「日本軍に強制連行された一般の中国人、劉 連仁(りゅうりぇんれん)さんの北海道での逃亡生活をつづった壮大な物語。実話にもとづく13年間の壮絶なドラマを沢 知恵がピアノで弾き語る。70分超の1曲のみ収録」(沢知美オフィシャルサイトより)という意欲作です。

中国に戻った時の劉連仁さん

中国に戻った時の劉連仁さん


劉連仁さんが隠れていた穴ぐら

劉連仁さんが隠れていた穴ぐら

 茨木のり子さんは、『りゅう りぇん れん の物語』の詩の後、以下のように、人の数奇な運命を語っていますので、この部分を引用します。

『一つの運命と一つの運命が ばったりと出会う  その意味も知らず
 その深さをも知らずに  逃亡中の大男と   開拓村のちび
 風が花の種子を遠くに飛ばすように  が花粉にまみれた足で飛び回る
 ように一つの運命と  一つの運命が交錯する  
 本人さえもそれと気づかずに  一つの村と
 もう一つの遠くの村とが   ばったり出会う
 その意味も知らずに   その深さをも知らずに  
 満足な会話すら交わせずに  もどかしさをただ酸奨のように鳴らして
 一つの村の魂と  もう一つの村の魂とがばったりと出会う 
 名もない川べりで    
 時がたち  月日が流れ  一人のちびは大きくなった  
 楡の木よりも逞しい若者に   若者はふと思う  
 幼い日の  あの交われざりし対話   あの隙間
 いましっかりと   自分の言葉で埋めてみたいと 』

  以上、引用終り。
(宿六)

家に戻った劉連仁さん

家に戻った劉連仁さん


*劉連仁さんの写真はすべて:毎日(中国語簡体字の頭という字)条より
https://kknews.cc/history/6z6ynn3.html

案内チラシ



■参考
沢 知恵 |Tomoe Sawa Official Site
http://www.comoesta.co.jp/
http://www.comoesta.co.jp/discography/cmca2020.html