元号に対抗する思想― 元号を使用することは権力・権威への追随となる
1.国家機関と自治体機関の書類は、すべて元号で年月日が書かれ、国民・住民の提出する国家機関と自治体機関への書類は、すべて元号で年月日を記入しなければならないようになっていることは、そのようにしないと受け付けてもらえないのではないかと国民・住民に不安感を抱かせることを含めて、元号の実質的な強制が行われていると言うことができる。元号を強制する意思がないならば、西暦を使うか元号を使うかを国民・住民が選択できるように、国家機関と自治体機関に提出するための国民・住民用の書類には、元号を書かず、単に年と月と日のみを書いておけばいいはずである。
なお、法務省は、1979年6月9日付の通達「元号法の施行に伴う戸籍事務の取扱いついて」において、「元号法は、元号制定の手続きを定めることを主たる目的としたもので、国民に対してその使用を義務付けるものではない」と言いつつ、「西暦を用いた届出等がなされた場合においても、市区町村長はこれをそのまま受理する」、「西暦を用いた届出等を受理した場合において、これを戸籍に記載する際には、公簿の記載の統一を図る趣旨から、従来どおり元号をもつて記載する。なお、外国人の生年月日については、従来どおり西暦による」、「戸籍の謄・抄本等は、原本に基づいて作成すべきものであるから、戸籍の記載された元号による年の表示を西暦による表示に改め、又は西暦による表示を併記した謄・抄本等の交付請求がなされても、これに応じることはできない」として、この分野での元号の強制を表明している。
2.日本には民主主義革命が一度もなく、また、日本人民(今日では、国民の中の民衆)が、天皇を成敗したことは一度もないから、そして、日本人の民主主義と基本的人権の享受(1947年5月3日の日本国憲法の施行により実現)の歴史は、70年しかないから、日本人民の権力者・権威者の横暴に反抗する力は、強固とは言えず、人民主体の考え方は、権力者・権威者に対して、妥協的になっている。日本人民の民主主義と基本的人権の享受の歴史が100年となったら、人民の闘いの成果で、人民主体の考え方は、もっと強くなるのではないか。
「しんぶん赤旗」は、西暦と元号を併記しているが、この点について、日本共産党の志位和夫委員長は、2019年4月1日の記者会見で、「元号は、日本国憲法の国民主権の原則になじまないものだと考えている」、「わが党は、国民が元号を慣習的に使用することに反対するものでない」、「国による(元号の)使用の強制には反対する」、「慣習的に元号を使用する方に便宜を図る上で、『しんぶん赤旗』では引き続き併記していきたい」、「いま元号あるいは元号法を廃止すべきという立場に立っていない。将来、国民の総意によって解決されるべきと考えている」と述べている(2019年4月2日付「しんぶん赤旗」)。
日本共産党は、人民革命による政権獲得ではなく、選挙による政権獲得、即ち、自由民主党を含む保守政党との連立政権の樹立を目指しており、そのためには、自己が保守党化する必要があるとの観点から、政策の保守党化に向かっている。それ故、日本のブルジョアジーの階級支配の重要な道具である日米安全保障条約や自衛隊や天皇・元号の廃止は将来のこととされ、今は、それらの廃止の運動は起こさないと断言している。その観点に立って、人民主体の考え方を貫くことはマイナスとなるから、日本人民の権力者・権威者に対する強い妥協性を利用して、元号に妥協して使用すること――天皇に妥協することになる――は、問題ないとするのである。
日本人民には、人民主体の考え方を確固たるものにする課題が存在している。
3.元号は、君主としての天皇の支配の記号として作られるものであって、文化の記号として作られるものではない。元号は、天皇のために歴史の継続を断つ道具である(元号を改めるたびに、歴史は一年から始まる)。
国民主権のもとでは、国民が日本国の統治者であって、天皇は、日本国の統治者ではない。従って、国民が天皇の主人公である。国民が元号を使用することは、天皇の主人公から天皇の服従者に転落することになるから、国民主権が成立したら、元号は廃止されなければならない。国民主権のもとで元号が存在するのは、その国の美風ではなく、その国の国民主権の弱さの表現である。
国民主権を大切に思う人や団体や政党は、元号を使用すべきなく、元号の廃止を主張しなければならない。
天皇を人民が一度も成敗したことのない日本国では、元号を認める限り、元号を使用する限り、国民・団体・政党は、天皇に囚われた国民・団体・政党に陥る危険性を抱え込むことになる。
国民主権を曖昧なものにしている、主権者国民を権力者・権威者の横暴に妥協的な主権者国民にしている天皇の廃止のことを、改めて、真剣に考えようではありませんか。