溢れる差別・排外の出版物…社会的分断に協同して抗おう

書店に並ぶネトウヨ・ヘイト本

書店に並ぶネトウヨ・ヘイト本(ヘイト本のヒットは日本の恥ずべき事態。知識人やメディアは煽ってはいけない【ジャーナリスト青木理】 日刊SPA 2017年09月13日より)
https://nikkan-spa.jp/1395207/bk2_170912_14

書店で表紙の見える本を置く場所、陳列台や平台にいわゆる「嫌韓・反中」の類の本が目立つようになってから久しい。私はもともと書店に入っても雑誌コーナーや専門書に直行する方だったので、きちんと書店の売れ筋の面だし棚などを気にかけて見ることがなかったが、何時の間にか書店の一角を占拠するようになった。

「嫌韓・反中」の本が書店を賑わすと共にヘイトスピーチと呼ばれる憎悪や脅迫の表現が、公然と行われたり、「ネット右翼」と言われるものが目立つようになったのは何時からなのか。

個人的な印象となってしまうが「新しい歴史教科書をつくる会」(以下つくる会)が1996年に結成され、マスコミなどで大きく報道された。それが社会に与えた影響があると思う(ちなみに「日本会議」は97年に結成されている)。たとえば「自虐史観」や「歴史修正主義」という言葉が世間に膾炙するようになった(「自虐史観」はこれまでの歴史観を揶揄する言葉で、いっぽう「歴史修正主義」は日本軍の犯罪や従軍慰安婦など、日本にとって都合の悪いことを否定する言葉として使用した。つくる会自身は「自由主義史観」と称していたが言葉自体は定着しなかった)。

つくる会の教科書そのものの採択はわずかだが、日本と日本の歴史を徹底的に肯定するという基本のスタイルを示したのではないだろうか。

実際「歴史修正主義」的教科書は教科書として学校の採択されるよりも、書店で見かけたし、『新しい歴史教科書』(扶桑社 2001年)などは市販され部数を重ねて子どもというより、一般に普及していった。

それらの主張は主として植民地責任や侵略戦争の責任を否定・無視するものであった。つくる会の公式見解はあるのだが、内実は林房雄の『大東亜戦争肯定論』(63年発表 現在、中公文庫)を焼き直して反復しているようにしか見えないのである。

そもそも「嫌韓・反中」のおおもとは日本の過去と現在が原因なのだが、もう少し現在に至る排外主義の流れを追ってみよう。

たとえば、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』シリーズは、やはり97年頃から強制連行や「従軍慰安婦」などを否定する作品を発表していった(この頃の出版業界は最高売上を記録し、その後右肩下がりとなってゆく)。とはいえ、これに対するカウンターも反論する運動もあり、多数意見ではなかった。そういった暴論が侵食していくのが、2000年代中頃であり、丁度パソコンのウィンドウズやインターネットの常時接続が普及して、誰でもネットに参入してくる状況であった。

■ネット右翼の登場

2002年日韓共催ワールドカップや韓国ドラマ『冬のソナタ』のヒットで韓流ブームがあり、その反動でネットでの掲示板などでは韓国バッシングへの隆盛があり、『マンガ嫌韓流』(晋遊舎 2005年)が発売され、新しい保守雑誌として、月刊誌『WiLL』(ワック・マガジン)が2004年に創刊された。元文春の花田紀凱を編集長として朝日新聞などの国内メディアや、中国・韓国・北朝鮮などを批判する記事が主だが、その後2016年からは飛鳥新社で月刊誌『Hanada』を創刊した。ちなみに在日韓国・朝鮮人へのヘイト・スピーチを繰り返す「在特会」の結成は2006年だ。

2000年以降は雑誌よりもネットの存在感が増して、「ネット右翼」という言葉も2005年頃から使われるようになる。「デジタル大辞泉」では<ネット右翼=ネトウヨ>として、2002年から増加したと書いている。

ネット右翼というからには、ネットの存在が人々の中心にあるのは容易に想像できる。情報がダイレクトかつ瞬時・大量に得られる環境が状況を変えた。実際のところ総合的なメディア展開のなかで、身近なツールがネットであり、SNSに見られるように発信者と受信者が相互乗り入れをおこない、コミュニティで自足・生成するようになった。

それまであった紙媒体の保守論壇紙・誌を書店で購入していたものが、無料で手に入る。また、無関心だった人が頻回に目にするようになり、親しむようになる。さらに衛星放送で「日本文化チャンネル桜」(2004年設立)が放送されるようになる。これは「ニュース女子」の源流のような存在だ。ネットの広告でもヘイト的な情報や書籍が増えて、本当に効果があるかどうかは別にして、出稿そのものが目的化したような、大量宣伝がおこなわれる。おおむねそこで表現・主張されるのは韓国や中国を誹謗・中傷したり日本を肯定する紋切型のものであり、最早広告そのものが暴力的なものとなっている。

ところで2017年ベストセラー第1位(新書ノンフィクション部門)は、ケント・ギルバート著『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)だが(日本出版販売調べ)、読者はどんな人なのか、調べたものがある。(『データで読み解くケント・ギルバート本の読者層』高口康太 「ニューズウィーク日本版」2018年10/30号)
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/10/post-11191.php

上記の記事によると、POSデータから見て、ギルバートの主要な読者は、都心以外に住む高齢者で、保守系書籍を購入する熱心なファン像が推定されるという。

■ヘイト本購入者は中高年男性?

ヘイト本の流行については、本を購入するのは書店員などの聞き取りなどから中年以上(若干高齢者か?)の男性が多いという話もあり、統計研究によると「ナショナリズムや排外意識は年配者ほど強くなりやすいですが、この一般的傾向が『ネット右翼』にも表れている」との可能性を指摘する。(『「ネット右翼」の主役は中高年男性? エスカレートするその心理』アエラ 2018.10.22 )
https://dot.asahi.com/aera/2018101900013.html?page=2

中高年男性だから右翼になる、というのも単純化しすぎではとも思うが、日本は中央集権的で、同調圧力と言われるものが強く、規範意識の厳しい社会だ。そこに男性が居場所を失い、「男らしさ」というジェンダーの縛りもあり、年を重ねるごとに孤独化が進むとも言われている。そのストレスとやり場のない不満などがあり、結果として排外意識を造成して誹謗・中傷をするようになったのかもしれない(もちろん正当化はできないが…)。

とはいえ愛国主義や排外主義へ至る理由はいくつかあり、複合的だろう。良く引き合いに出される近年の風潮など、例えば、右傾化についてはあまり明確ではない。社会学者の倉橋耕平は「よくわからない」(『歪む社会』安田浩一・倉橋耕平 論創社 2019年)という。確かに右傾化という見立てについて、日本の政治は基本的に保守政治・自民党の支配だったからだ。それに、保守の言説は一定程度は支配的であった。さらに歴史認識としては、社会的に戦争の意識は被害者的立場が濃厚で戦争責任や加害の意識は希薄だった。

左派の立場から見れば、戦後社会、とくに70年以降はずっと後退戦となっていた。支配層側の思惑にも、ソ連などへの対抗上、政策的には労働者への譲歩と妥協があり、階級対立を薄めるように進んだ。結果として対抗的な民衆の運動や思想をおおきくすることはできなかった。具体的には総評解体・労働戦線の右翼的再編の動きや国鉄分割民営化と国労攻撃など、労働運動が攻撃を受け、弱体化したことも大きい。

時代としては小泉政権時代から、新自由主義の思考である優勝劣敗の市場の論理がまん延し、社会的分断となることを公然と主張し、弱者や少数者を排除しても良いという、弱肉強食の世界を肯定するようになった。それまでの共同体を壊すことで、寄る辺なき人々は旧来の意識にすがる、結果として愛国的になったり、ナショナリズムに傾くという構図だ。

さらに新自由主義の進展により差別・排外主義も伸張したことだ。たとえば2004年の「イラク日本人人質事件」では複数の日本人が人質となったが、被害者に対して「自己責任論」を展開する声が少なくなかった。本来これは、リスクのある金融商品に投資する消費者に対して使われていたものが、この言葉がひとり歩きして、弱者を叩くための常套句になってしまった。

やはり安倍政権の極右路線もおおきい。差別・排外の表現や歴史を歪めた発言など否定せず、肯定し、あるいは自ら発言する(いちいち記さないが)、主導者となっているからだ。

その例として、杉田水脈議員の「新潮45」(新潮社 2018年8月号)の「『LGBT』支援の度が過ぎる」がある。LGBTの人たちへの差別・暴言と人権認識への攻撃だが、もともと杉田議員はトンデモ発言を繰り返す人物で、暴論のオンパレードともいうべき人物であった。それが「安倍さんが杉田さんって素晴らしいというので、萩生田(光一・現党幹事長代行)さんとかが一生懸命になってお誘いして」と公認したのだ。

そして「慰安婦を支援する側は女性が多かったので、『対抗するには女性を』という戦略が、政界にも右派論壇にもあったと思います」という。(『なぜ杉田水脈議員は過激発言を繰り返し“出世”したのか』「ビジネス・インサイダー」2018.0801)
https://www.businessinsider.jp/post-172378

要は安倍政権が一本釣りでヘイト議員を引き抜いたということだ。偏見の塊で非常識な人間を安倍政権は堂々と席を与えて、讃えている。

加えて雑誌「新潮45」も情けない。結局はこれが原因で休刊になるが、それまでの2年間で杉田議員は8回も登場している。もともと保守的な雑誌ではあったが、後発のヘイト雑誌に追随したのか、世間の空気を読んだか、政権忖度か、もう少し理性的だと思っていたが、暴論を好んで取り上げるようになっていた。

これについては斎藤貴男が「体験的『新潮45』論」(『世界』岩波書店 2018年12月号)で、自分が仕事をしてきた場がどんどん変わり、政権批判がしにくくなったこと、出版界が不都合な真実を追及する姿勢がなくなってきたことを書いている。最後のところではジャーナリズムやノンフィクションを再生するために複数の出版社が協力して「新しい雑誌」をつくってはどうか、と提案している。

出版社リスト(『歪む社会』論創社 2019年より)

主なネット右翼系の本の出版社リスト(『歪む社会』論創社 2019年より)


■ 差別・偏見を増幅する出版物

雑誌が売れなくなって久しいし、一次情報は別にしてもメディアの主導が紙媒体からネットとなっているなか、雑誌が利益を出せる領域は成立しずらくなっているし、なかなか難しいだろう。

「ネットは基本、クソメディア」(中川淳一郎)とは言い得て妙だ。ネットの発言は無責任なものになっているが、出版は社会的共通資源であり、共有物でもある。ネットのように電源を切るだけでは済まない。編集者や経営者は常に出版物の製造者責任が問われるだろうし、また、内容についての一定の矜持や見識が求められる筈だ。「悪貨が良貨を駆逐する」であってはならない。

余談だが、書店のヘイト本の増殖については、需要があり、売れているのも事実だが、「絶対に売りたくない」「恐怖を感じる」「どうしてこういう行動をとるのかわからない」との書店員の声がある。(『NOヘイト!』ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会編 2014年 ころから)

また現状の配本システムに「見計らい本」があり、書店に対して問屋にあたる取次店が、注文していない本を勝手に見計らって送ってくる制度があり、ヘイト本なども多く含まれてくるという。ある書店主は「うちはこの『月刊Hanada』はほとんど売れていないのです。それなのになぜ? 」という思いがあって、この問題を訴えて話題となった。「見計らい本も事前に書店に中身を伝え、書店側に断る権利を確保させて欲しいと思います」「この本は事実誤認が多く売りたくないので送らないで下さいと断っても現状は配本されてしまうのです。書店の意思を抜きに本を十把一絡げに、見計らいで配本するということ自体、おかしなことです。」と語る。貴重な意見だと思う。力関係で取次から来た本を並べていくだけというのが普通だろうが、それがヘイト本を溢れさせた要因でもある。
(『なぜ書店にヘイト本があふれるのか。理不尽な仕組みに声をあげた1人の書店主』「ビジネス・インサイダー」2019.0303)
https://www.businessinsider.jp/post-186111

ともかく右派の宣伝は電車の中吊りからステッカー、ネット広告、新聞・出版、SNS、動画、ネット放送、民間放送に渡って繰り広げている。組織的で資本力もある。

そして最近の韓国バッシングである。韓国の徴用工裁判判決に単を発した日本政府の韓国非難は常軌を逸しているが、大手メディア、とくにテレビなどが盛んに尻馬に乗って攻撃をくり返している。

週刊ポストの記事は波紋を広げた(問題視するツイッター)

そんななか『週刊ポスト』(小学館 2019年9.13号)が、「韓国なんて要らない」という特集を組んだ。さすがにこれについては東京新聞と毎日新聞は9月4日付の社説で批判した。また有志がツイッターで呼びかけ、社前で抗議行動が起きた。すかさずポストは謝罪文書を出したが、不十分なものだ。小学館自体は『SAPIO』という保守系の論壇誌を発行していたので、さほど違和感はなかった。『SAPIO』が休刊になったシワ寄せかもしれないが、遂に週刊誌までという感慨はあった。

極端な意見や情報だったらネットに溢れている。それしか売れないと判断したのだろうが、情緒的で一部の読者に心地良い情報はネットにはかなわないし、先行している雑誌との競争にしかならない。

雑誌を創る側の人間は今一度考えてみるべきだろう。戦前のメディアが戦争を煽ったという事実を。メディアに煽られて世論が形成されていったが、今度は国民からも望んでいった。そして「対米戦争が始まってからの雑誌ジャーナリズムは(略)壊滅した」(『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利 保阪正康 2016 文春文庫)のだから。

さて、偏見と差別や憎悪を生み出し、分断を強いる勢力に対してどう抗っていったらいいのか。

参考になるのは前出の『歪む社会』(論創社 2019年)にある提案だ。差別やヘイトの言説を成立させないために書籍や新聞であれば、不買運動などのボイコット。テレビ・ラジオならばスポンサーへの働きかけを提唱している。

対抗する側の戦略としては意識的に「運動としての出版活動」を追求すること、「自らのステージを下げて、サブカルなども巻き込みながら、対抗する言説を増やしていく」ことを挙げている。

リベラルや左のところは、どこも運転資金に苦心しているところが多いと思うので、市民団体や運動体やリンク・協調しながら進めるしかないだろうが、民衆のための公正な倫理と論理を築かなければならないだろう。

妙案があるわけではないが、映画「主戦場」でミキ・デザキ監督が示したように。「事実」をもって語らしめるしかないのではないか。デザキ監督は従軍慰安婦問題に対して公正であろうとして、相反する双方に話を聞いている。知らないことに対して誠実に向き合っている。

人間は知ることによって、変わるし、変わる可能性があると信じている。さらに過去を知ることで現在がわかるし、未来が見えて来る。「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」(ワイツゼッカー・元ドイツ大統領の演説)のだから。
(本田一美)

戦中の雑誌「主婦の友」。「アメリカ人をぶち殺せ!」の文字が踊る

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