九条俳句と昭和の俳句弾圧…自由な言葉・表現で抵抗する!
『芸術と憲法を考える連続講座』の第14回が2月16日(土)に東京芸術大学の上野キャンパスで開かれた。タイトルは「表現の自由を求めて-昭和俳句弾圧事件と九条俳句訴訟-」で、九条俳句訴訟は2014年に埼玉地域の句会で詠んだ俳句が地元公民館の会報に掲載を拒否されたことをめぐっての争いで、1940年代の「昭和俳句弾圧事件」については、2018年に長野に「俳句弾圧不忘の碑」が建立されたのだが、そのことを同時に考えてみるという内容であった。
九条俳句訴訟については昨年末に勝訴の朗報が届いていたが、最初に長い裁判を戦った作者女性(78・氏名非公表)に、花束が贈呈された。九条俳句が掲載された2月1日発行の「三橋公民館だより」を示して女性は「声をあげてよかったと今は思っています」と勝利の喜びを語った。
続いてフランス出身で俳人のマブソン青眼さん(「檻の俳句館」館主)の熱いトークがあり、次に九条俳句市民応援団をやっている教育学者の佐藤一子さんが講演をおこなった。
■マブソン青眼さん(俳人・比較文学)
「昭和俳句弾圧事件」を知って、調査して「レジスタンス俳句」を編んで発行した。さらに周囲にはたらきかけて、長野に「俳句弾圧不忘の碑」を建立した。それらの過程で金子兜太が実は弾圧事件の被害者である嶋田青峰が師匠だったこと、平和の想いを改にしたこと、碑を作る動きにもつながったことを紹介した。
当時の俳句の世界は高浜虚子が主導して花鳥諷詠をイデオロギーのようなものにして時局に協力していた。その虚子は、弟子の嶋田青峰が治安維持法違反の嫌疑で投獄された時、弟子を救おうとはしなかった(青峰はそれがもとで結核が悪化し死亡した)。虚子は「戦いに勝ちていよいよ冬日和」と好戦的な “聖戦俳句” を作っている。
俳句の世界では一貫して戦前の軍国主義加担した批判や歴史見直す動きは一切なかった。現在も俳句総合誌は今日の九条俳句事件や、俳句弾圧不忘の碑建立についても、報じることはない。自分を縛っているのが俳句界だ。自由な発想を守り、自由に自分の夢を語ろう。
■佐藤一子さん(社会教育学・東大名誉教授)
社会教育は上からと下からの争いの場となります。市民の表現が行政(教育)が駄目だというのなら社会教育は死ぬでしょう。
各地の公民館では表現の自由はキチンと守られていますが、しかしそれをことさら主張したり、目立つことをすることは避けられています。明らかになると上から目をつけられて、配転させられたり不利益を被ることが現実で、それは以前からそうなっています。
女性たちが詠んだ俳句を大事にして、曲げなかったことが成果となっています。公民館は市民が学び合う場です。その公民館で、2000年代に入り様々な問題が起きています。背景に、第一次安倍政権が憲法改正の前哨戦としての、教育基本法の全面的な改正があります。社会教育との関係では、旧教育基本法の2条がまったく書き換えられ、学問の自由の尊重や、自発的精神を養うなどの言葉が削除され、伝統と文化の尊重や、我が国と郷土を愛するなどの言葉に置き換えられてしまいました。教育勅語復活の動きもそこから出ています。
学ぶ自由、表現の自由を一体のものとして要求する、そのことを判決で認められたことは、これからの日本社会のなかで市民の意思を発信・拡張していくうえで、大きな意義と始まりが設置できたのではないでしょうか。
(本田一美)