植民地朝鮮で観られた紙芝居
神奈川大学のキャンパスで1月21日に「植民地朝鮮の紙芝居-視覚メディアを利用した情報宣伝-」という研究会があり出かけてみた。講演は權希珠(Kwon Heeju) 建国大学アジアコンテンツ研究所助教授。主催は神奈川大学日本常民文化研究所付置非文字資料研究センター非文字資料研究センター・戦時下日本の大衆メディア研究班。
韓国では紙芝居の研究が始まったばかり、私の関心としては玩具や紙芝居が少国民の形成におおきな役割を果たすことがあるということです。
まず先行研究として『植民地朝鮮と児童文化』 (大竹清美 2008年 社会評論社)があります。雑誌『朝鮮』朝鮮総督府文書課の報告を紹介して植民地朝鮮での紙芝居の存在を確認しました。朝鮮ではカミシバイ、チョギヨング、クーリンヨングなどと呼ばれて意味としては「紙の演劇≒紙演」というものです。
朝鮮における最初の紙芝居は1937年とされていましたが(雑誌『朝鮮』による)、それよりも早い1934年に出現していることが新聞『釜山日報』で確認されました。作品は不明ですが釜山市内で紙芝居が流行して、教育上よくないという内地と同じ観点の記事です。
植民地朝鮮への紙芝居の導入は1936年に逓信局による簡易保険事業の宣伝があり、紙芝居で振興策の一環で農村にも浸透したようです。朝鮮における新聞でも『東亜日報』『釜山日報』『毎日日報』などに記事が掲載されています。1934年~36年は慶尚道で紙芝居が流行していて、釜山にもあったことがわかります。37年になると紙芝居の多角化、効用性、農村の遊戯という記事があり、日中戦争以後は国策として時局認識、徴兵、日本語学習という目的になっていきます。
当時の朝鮮では、大衆的に伝達するメディアが普及していないため、もっぱら紙芝居が活用されたと思われます。特に慶尚北道では知事が農村振興を目的として「農民は笑いから」というスローガンで積極的に導入し、失業状態にある知識人-大学卒で日本語も読める人-を紙芝居師として訓練して徴用、活用したようです。
資料の確認ですが、作品として確認できるものは現在では36作品で、全体が揃っているものは9作品、セリフのみが2作品、1部分が2作品です。
製作元は朝鮮総督府、逓信局、慶尚北道、財務局納税課(公募)、日本教育紙芝居教会(朝鮮総督府情報課の指導)、朝鮮啓発教会、慶尚南道、朝鮮金融組合連合会、東亜国策画劇社(朝鮮総督府古文書)です。
*国策の宣伝メディアとしての紙芝居
主要な作品としては「支那事変と銃後の半島」(1937年)があり、これは28枚1組のもので説明に1時間を要し、時局認識のため東京から持ち込まれて、朝鮮の各道群島に配布されていたと『毎日新報』が伝えています。
また「金少佐」(1939年?)というものは実在した朝鮮人の兵士を英雄化し物語としたもので、時局の講演会などで人気があったようです。
あるいは「生業報告」(1937年)という作品では、酒を飲んでばかりいる
農民の全君が韓青年に非常時には国民総力の生産活動が大切だ、と説得されることが描かれています。「かわいい孫娘」(1942年)は裏面をみると二段に分かれていて上は朝鮮語(ハングル文字)下には日本語が表記されています。注意事項に地方に合わせて方言を使うように勧めています。また紙を抜く速さを調節して集中させるよう演出の指導があります。朝鮮語の翻訳者は牧洋(李石薫)という作家です。彼は親日文学者として扱われていましたが、近年再評価が進んでいます。この作品は日本語がわからないおじいさんが、京城に住んでいる孫娘に会うために上京するのですが、列車の案内が分からない、娘の友人に挨拶できない、病院での病状の説明ができないなど、おじいさんの困った様子を描写して国語(日本語)の重要性を説明しています。
慶尚南道では1940年3月末から定期的に密航防止座談会を実施し、そこで紙芝居を一般に観覧させていました。上演されたのは「明暗の岐路」(1940年ごろ)です。
李青年は内地(日本)の実情を知らないまま放浪し、金君と白君は就職口が明確ではなかったので審査に通過できないのでブローカーの甘言に騙され、事故に遭い、お金も取られてしまう。密航が割に合わないことを悟り、親切な警察により故郷に保護送還されて、法を守ることが正しいと故郷に皆に説明する、というものです。
まとめますと、朝鮮では1937年以降、紙芝居は国策の宣伝メディアとして活用するようになっています。おおむね朝鮮総督府文書課が製作し、東京から配給されていたようです。実施された記録ですが、江原道での「防諜思想宣伝普及宣伝用紙芝居実施状況」(1938年のうち3ヵ月間を抽出)があります。これには112の紙芝居台数、実施は973回、22の地域、805の部落でトータル5万1587人が参加したということです。
今後の課題は新しい資料の発掘と整理を通した土台の構築があります。資料の綿密な分析と研究も必要ですし、東アジア(日本、台湾、中国、韓国)の研究者の交流と研究成果の共有および拡散があると思います。
報告後は紙芝居を見たことのある人の聞き取りなど、記憶の発掘が重要だという話や、朝鮮農村での大衆娯楽で日本の新派劇やマダン劇が人気があったという話。日本の文化が朝鮮で受容される時に変容されている実態など興味深い話が続いた。
なお、後日『植民地朝鮮と児童文化』 ( 大竹清美 2008年 社会評論社)をひろい読みしてみたが、植民地時代の朝鮮における児童文化について紙芝居にとどまらず幅広く紹介している本でなかなか面白い。最終的には「皇国臣民化児童文化」というものが支配的になるようなのだが、いっぽうで「プロレタリア児童文化」というものもあり、国策としての教育と対抗的にあった国際連帯の抵抗運動などについて、あらためて見直してみたい。(本田一美)