「うごけば寒い」獄中で300の俳句を詠んだ橋本夢道

橋本夢道の展示

月島の「平和をねがう中央区民の戦争展」における橋本夢道の展示

ラジオを良く聴いており、特にタレントの伊集院光の番組が好みだ。彼の「深夜の馬鹿力」という深夜放送で以前、自由律俳句を紹介していてちょっと不思議な気がした。そして彼がTBSラジオの朝の番組を担当するようになり、そこで今では木曜日にコーナーを設けて自由律俳句を募集している。けっこう本気でやっているのだと感心した。

自由律俳句とは、従来の五七五にはこだわらずに、「客観写生」や「花鳥諷詠」を主題とする定型俳句からはみだして、感性や情景を口語体で詠むというものだ。俳人として知られているのが尾崎放哉と種田山頭火なのだろう。その名前をあげて「伊集院光とらじおと放哉と山頭火と」というタイトルにしている。

たとえば、誰もが聞いたことのある句として、尾崎放哉は「咳をしても一人」、種田山頭火は「分け入っても分け入っても青い山」が代表作として知られているだろう。

この番組は一般リスナーからの投稿で成り立っているのだが、俳句を読んでいるのがアナウンサーの遠藤泰子さんなので、また味わいがあってついつい聴き込んでしまう。というように自由律俳句については知識が乏しいのだが、せんだって月島での「平和をねがう中央区民の戦争展」で、地元に根付いた自由律俳句の俳人橋本夢道の展示を見てぜひ彼の生涯を紹介してみたいと思った。

橋本夢道の「夢道」は俳号で本名は橋本淳一という。1903年徳島に生まれ、藍玉問屋に丁稚奉公として入り東京に異動となり故郷を離れた。幼いときから俳句をつくっていたという。東京では萩原井泉水(おぎわらせいせんすい)の新興俳句を知って、彼の主催する「層雲」の同人になり、それに自由律俳句を投稿するようになった。後に栗林一石路(くりばやしいっせきろ)や横山林二(よこやまりんじ)ら数人がプロレタリア俳句運動を開始し、夢道もそれに加わった。

●-プロレタリア俳句運動の時代
「層雲」からプロレタリア俳句が締め出されていくと、夢道たちは「旗」を創刊し、夢道は『吠えろ俳句』を発表。1931年に夢道は栗林一石路、横山林二と雑誌「プロレタリア俳句」に参加し、後に「俳句研究」を創刊する。これ以前から彼らは特高警察から目をつけられ様々な妨害や圧力で廃刊を余儀なくされたり、発禁命令が出ている。

1936年に『渡満部隊』と題された夢道の連作が「俳句生活」に掲載された。それは日本がでっち上げた満州国への移民計画が発表され、世間が浮かれている時でもあった。それを見ておこう。

「渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した動輪」
「歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏」
「寄るとわがくらしとは別な資本が満洲へ流れていく話か」
「三十五・六年の危機が黒竜江へ、形容の出来ない侵略図を流れている」
「好むも好まぬも万死の毒ガスが草も枯れた黒竜江はもう口がきけない」

いちいち解説はしないが、当時の資本・産業・軍隊が息せききったように満洲に流れ込んでいくありさまを冷ややかに見たり、不都合な事態に憤っているのが感じられる。

●-昭和俳句弾圧事件
日中戦争が始まり、ノモンハン事件も発生するなか軍国主義はいよいよ激しくなり、日本国内の締め付けも厳しくなっていった。1940年から1943年にかけて治安維持法に基づく俳句誌・俳人に対する一連の言論弾圧事件が起こる。新興俳句弾圧事件あるいは昭和俳句弾圧事件とも言われ、俳句雑誌は廃刊になり、44人の俳人が治安維持法違反容疑で検挙され、うち13人が懲役刑を受け、留置場で心身の苛酷な苦痛を強いられ、釈放後に病死したりした者もいた。

当時は高浜虚子が会長となる「日本俳句作家協会」が設立され、高浜は「立派な国民精神を俳句によって作り上げる」とあいさつしたという。また、自由律俳句を疎ましく思い潰したいと思っていた節もある。その後は「日本文学報国会」会長にもなった。

以前から当局に睨まれていた夢道は1941年2月に逮捕された。特高たちに、転向を証明する「上申書」に署名捺印すれば釈放してやる、と唆されたが、信念を曲げなかった。逮捕された俳句仲間には厳しい拷問を受けた人もいたようだが、夢道は拷問はされなかったようだ。

夢道は月島署で7カ月を過ごし、巣鴨の東京拘置所へ移送され独房暮らしが続いた。拘置所では筆記用具の差し入れは禁止されており、紙石板を差し入れた。紙石板はB5判の大きさで、全部で6頁あり、ロー石で文字を書く。紙のノートが貴重な時代に貧しい子どもたちが使っていた。これを蒲団を差しれるとき、綿と綿の間に入れて縫い付け差し入れた。夢道は獄中でそっと取り出してこの石版に書きつけ、合計300の句を書き、蒲団の中に入れて持ち出した。この時の句を紹介する。

「ドアしまり独房の内にハンドルああ無きなり」
「わが手錠両手に鳴く秋蝉」

獄中では、新聞もラジオも聴けない。戦争がどうなっているのか、知るよしもないが、ある日獄内が騒然としている時に雑役係にそれとなく聞いてみた。「戦争だよ」との応えだった。

「大戦起こるこの日のために獄をたまわる」

アメリカとの戦争が始まって4ヶ月後に夢道は巣鴨で飛行機の爆音を聞いた。初の米軍による東京空襲であった。東京・尾久、川崎、横須賀、名古屋、神戸に爆弾を落とし、全国で50人の死者が出た。

「空襲ありその時囚人母を憶うている」

獄中は冷房や暖房もなく、自由を奪われている以上は四季の寒暖をダイレクトに受け容れるしかなかった。昔は東京でも冬は寒かった。コンクリートの独房は体温を奪う。凍える手で石板に書きつけた。

「うごけば寒い」
「わが四十獄の雑煮を神妙に食う」
「爪のほかはどこからでも汗が出てくる」

夢道が見るのは独房の小窓からでしかなった。囚人たちは拘置所の庭で畑を耕していた。それを観察した句もある。

「囚人かぼちゃ苗を植えわが窓に面している」
「空はにおやかな月を吐いて夏めく」
「かぼちゃの花が咲いたぞ一つのたのしみ咲く」

橋本夢道が獄中で詠んだ俳句を記した石版(月島「平和をねがう中央区民の戦争展」橋本夢道の展示より)

橋本夢道が獄中で詠んだ俳句を記した石版(月島「平和をねがう中央区民の戦争展」の橋本夢道の展示より)


●-時代を社会を人間を詠む
夢道は1943年3月保釈された。2年1カ月の獄中生活だった。夢道の一家は故郷である徳島に疎開し、そこで敗戦を迎えた。月島に戻った夢道は新俳句人連盟の結成大会に参加し、機関誌として創刊された「俳句人」に5句を発表した。

また俳句以外にも評論・随筆を投稿した。そこで夢道は「俳句を作ることはこれを立派な労働の一つと考えてよい」と書き「俳人が真に大衆の生きた姿を正確に把握するには作家自身が、まず大衆になりきらねばならぬ」として、リアリズム俳句を提唱した。

「元日よ貧乏には飽きぬが戦争よまたと来るな」
「貧乏桜よ東半球は千四百万トンの春の灰降る」
「水爆の人体実験ここに久保山愛吉の命の死闘」
「軍隊なき夏富士を見てありがたし」

いずれもGHQの方針転換や朝鮮戦争や、ビキニ水爆実験とその被ばく事件に対応している。最後の句は夏の富士山をみての連作で富士演習場での自衛隊の射撃訓練を皮肉っているようだ。

夢道の俳句は反戦・反核ばかりではない。橋本夢道全句集の序文で次のような文章がある。

「氏の全作品を読み返して見ると、同氏は決して狭義の左翼作者という限定を伴なわしながら読むのはむしろ不自然であるというのはすぐにわかるのである。
 氏は徹底的な人間信頼、人間賛美の心の世界の持主であり、むしろ『民衆詩人』と呼ぶのが最もふさわしい事がはっきりとわかる。」(「庶民詩人・抒情詩人 橋本夢道」中村草田男)

月島の路地を愛した夢道は、庶民のまちの情景、そこに住むひとや子どもたちを詠んだ。
 
「ポケットに鳴るビー玉を賭け泥手の子三四人」
「路地しづかになるや黄金バット始まらんとす」
「『あさり、しじみョォ』貧乏路地を起こしにくる」
「ぐうっと胃袋の鳴るのは悲しみか又腹だちか」

夢道は死の少し前に墓地を購入し、墓石に「うごけば寒い」の一句を彫った。寒中の獄にいて文字どおり寒かったのだろうが自由をもとめて活動し、表現すると弾圧され、「唇寒し」的な災いの象徴でもあったろう。これを自分の墓に刻んだ意味は重い。

いかがだろう。ごく簡単に橋本夢道の歩みを見ていったが、妻である静子との恋愛・結婚の物語も静かな情熱に溢れていて魅力的だ。戦前・戦時中・戦後を生き抜いた橋本夢道の生涯に興味が湧いたら、もっと他の俳句作品に触れていただければ幸いである。ここで紹介した句はすべて『橋本夢道物語』(殿岡駿星著 勝どき書房 2010年)から引用し、また内容について参考にさせていただいた。感謝して記しておきたい。(本田一美)

橋本夢道について書かれた本

橋本夢道について書かれた本


・参考
戦時下俳句弾圧 碑に残す 長野の俳人ら建立へ運動
 俳人・比較文学者のマブソン・青眼さん(48)=長野市=ら有志が、戦時下に弾圧された俳人たちの名を刻む「昭和俳句弾圧事件記念碑」を建てる運動をはじめた。上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」周辺が候補地に挙がっている。マブソンさんは「犠牲となった若者たちの名誉回復と慰霊をしたい。今こそ言論、表現、思想の自由が奪われた歴史に学ぶ必要がある」と語っている。(「信濃毎日新聞」2017年4月12日)
マブソンさんは弾圧された俳人たちの批判精神が、今こそ必要だ話す(「信濃毎日新聞」2

マブソンさんは、弾圧された俳人たちのような批判精神が必要だと思う、と語る(「信濃毎日新聞」2017年4月12日 より)


「昭和俳句弾圧事件記念碑」建立の筆頭呼びかけ人は、マブソン青眼、金子兜太、窪島誠一郎の3人で、碑には弾圧を受けた十数人の俳人の句が刻まれるという。例えば、秋元不死男「降る雪に胸飾られて捕へらる」、栗林一石路「戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台」、渡辺白泉「銃後といふ不思議な町を丘で見た」など。

昭和俳句弾圧事件記念碑の会
http://showahaiku.exblog.jp/