山東省にもあった「南京大虐殺」

挨拶する田中宏さん

主催者を代表して挨拶する田中宏さん


12月13日(日)14時から水道橋の全水道会館4階の大会議室にて「南京大虐殺から83年 証言を聞く東京集会」が開かれた。主催はノーモア南京の会などの「南京」集会実行委員会。

はじめに主催者から従来は中国から人を招いていたが、本年はコロナの影響でできなかった。しかし中国で感染が広がったときに、私達のなかで協力してマスクを送った。そして日本で感染が広がったときにマスクを送ってもらった、そういう交流ができた、と報告した。

さらに田中宏さんの主催者あいさつでは、日本人は歴史と向き合うことが鈍感である。南京記念館ができたのも教科書問題などで、歴史の改ざんが始まったからだと感じたからだ。今もその課題を引き継いでいる、と語った。

ついで集会では、石秀英さんの証言ビデオを上映した。以前に関西で証言集会に参加した石秀英さんの記録と南京現地取材を併せたものだ。

石秀英さんは当時11才で7人家族。彼女の家族は難民区内の南京師範大学近くの斜面に粗末な小屋を作りそこに住んだ。父と兄が日本軍に連行されて戻ってこなかった。

映像は石秀英さんの語りと南京市街の小屋のあったあたりを探して、実際の場所で話をするところを映し出していた。

次に山東テレビが制作した『郷胞際』(2006年)を上映。この映像は、一人の中国人が日本軍の虐殺調査の活動報告である。東史郎が日本軍に従軍したときの日記が出版されて、それが中国でも翻訳された。それを読んだ任世淦は、ニュースで日記をめぐる裁判で東史郎が負けたと聞き、義憤にかられて日記にあった記述の現場を検証する作業を始めた。そして日本軍に殺された5千人以上の村人を特定した。これを裁判に役立ててもらおうと記録を送ったが、2000年に最高裁は上告を棄却して東史郎の敗訴が確定した。

最後にノーモア南京の会の細工藤龍司さんの報告があった。

任世淦は独力で山西省棗荘近郊の農村を調査して虐殺の現場検証を続けた

任世淦は独力で山西省棗荘近郊の農村を調査して虐殺の現場検証を続けた(https://v.youku.comより 再現映像)

山東省にもあった「南京大虐殺」

●東史郎さんの日記の公開を巡る闘い
東史郎さんは1937年9月に天津に上陸してから、1939年7月に復員するまで多くの作戦に参加しました。東さんは戦地で書き続けた日記を展示したり、出版物として公開しました。

『我が南京プラトーン』青木書店(1987年)を出版後1998年、東史郎さん、青木書店、下里正樹さんに対して名誉毀損裁判が起こされました。

●任世淦さんの棗荘戦争における住民被害の調査
任世淦さんは1935年生まれ、山東省棗荘に住む元教員。93年に『東史郎日記』の中国語版が出版されて、それを読んだ任世淦さんは自分の地域での検証を思い立ち、また東史郎裁判のこともニュースで知らされ、現場を調査し日記を実証しようと活動しました。

8年かけて1500の村を訪問し、5500人の証言を聞き取り、1938年から1945年8月にわたって棗荘近郊で5484人の虐殺があったことを明らかにしました。

●任世淦『東史郎日記と私』の刊行
ノーモア南京の会は、2015年に棗荘を訪問した際に任世淦さんが、東史郎さんの日記の現場検証の資料・調査報告のコピーと写真を受領し、翻訳することにしました。

●徐州会戦―台児荘戦争とは
棗荘近郊農村部の被害は徐州作戦の前段階の台児荘戦争で引き起こされたものでした。東さんが参加したこの戦争は、当初は殲滅するための戦争でしたが、軍内部で意見の対立があり、要地占領を果たしたものの「敵殲滅」は達成しなかったのです。

上海事変のように大本営の方針とは別に軍の暴走が起こり、敵掃討を題目として進軍し、台児荘戦争へと向かうことになります。「中国軍の装備は優秀で、士気と戦意も熾烈だった」との証言がありますが、敵軍と対峙するなかで農村各地で住民被害が多発していたのです。

大本営は、方面軍や第2軍が、掃討戦に限定したものではなく、積極的に台児荘攻撃を認識していた、しかし命令をしていないから、責任はない、とのことです。現地軍司令部だけでなく大本営がデタラメで無責任だったのです。

(編集部)

話を聞く任世淦さん

農村で話を聞く任世淦さん

任世淦さん

調査の成果を説明する任世淦さん(二点ともhttps://v.youku.comより)