初の満蒙開拓団は東京からだった
主催はアジア共同行動(AWC)首都圏。
■藤村妙子さん (「東京の満蒙開拓団を知る会」)
満蒙開拓団は1931年の「満洲事変」以降太平洋戦争までの期間に、日本政府が、「五族協和・王道楽土」のスローガンの下に国策として農業従事者を中心に移民団を結成。中国東北部(旧満洲)に送り出しました。
敗戦になる1945年までの間に満州に渡った満蒙開拓団は27万~32万人と言われています。目的としては、満洲支配のために日本人を増やすということ。そして関東軍などの食料供給のため、日本の国内的には貧農・貧困対策としてあったと思います。
東京の満蒙開拓団は全国で第9位で、1万1111人(開拓団9116人、義勇軍1995人)で、前期の1932年~39年頃は、都市に流入してくる労働者の失業対策としておこなわれました。
東京にあったのは、深川にあった無料宿泊所の「天昭園」、大田区の「多摩川農民訓練所」があります。失業している労働者、ルンペンになった独身青年を「一定の期限で軍隊式に団体訓練して秩序だった移民団を満州に送ろう」と施設をつくりました。
後期は1939年~1945年は都市の商業者の転業、失業対策、戦火から逃れるための疎開という側面が強くなります。仏教やキリスト教など宗教団体の開拓団が組織され、鏡泊学園(国士舘大学の前身)、東京農大などの開拓団がつくられました。
転業開拓団というのもあり、1940年10月22日に「中小商業者への対策」として閣議決定されました。そうなった条件としては、すべて戦争遂行が優先されて、食料物資の配給、配給切符というものになり、装飾など文化的な平和の産業が成立しなくなり、行き場がなくなり、満洲にいけばなんとかなる、という意識が醸成されたことによります。
「大陸の花嫁」という言葉も生まれました。民族資源の確保としての良き母、大和民族の純血保持として、日本婦人の手本(よき妻)として、また民族融和の象徴として持て囃しました。
また10代の少年を「満蒙開拓青少年義勇軍」として送り込みましたが、その結婚相手としても必要だったのです。実際に新天地ゆえに旧来の農家のような嫁姑問題もなく、自由な雰囲気があり、憧れる雰囲気や気持ちがあったと言います。
東京の「天昭園」の開拓団は1932年6月に出発しています。官制の開拓団は10月ですから、一番早いです。また最後は1945年8月9日で、牡丹江に着いたのが常盤町の開拓団で、始めと終わりが東京からです。また最後の青少年義勇軍「吉田中隊」は8月6日に東広島市にいて、前日まで広島市内で勤労奉仕で働いていたそうで、数奇な運命です。
日本政府は満蒙開拓団の悲劇に対して責任ある対応をしておりません。2007年に中国残留孤児訴訟の原告団(満蒙開拓団の被害者)に対して当時の福田首相が「対応が遅くなり申し訳ない」と謝罪したのが、唯一の公式見解でした。
(文責:編集部)