核や放射能の恐怖を訴え続けた大石又七さん

大石又七さん(youtubeより)https://www.youtube.com/watch?v=wcM0aMM8akE


大石又七さんが亡くなられた。87歳だった。

1954年に米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った水爆実験で被曝(ひばく)した静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員で、核廃絶を訴える活動を続けていた大石又七(おおいし・またしち)さんが7日に亡くなった。公益財団法人第五福竜丸平和協会が発表した(「朝日新聞デジタル」2021年3月21日)。

江東区・夢の島マリーナ会議室で開かれた「ビキニ被爆64年久保山愛吉忌―対談と映像の集い」(2018年9月22日)で大石又七さんの話を聞いたことがある。

核兵器・原発や放射能についての危機感を強烈に訴えていた。それについてはこのサイトで報告しているのでぜひ参照してほしい。
元第五福竜丸乗組員が語る…ビキニ被爆64年集会

大石さんはマグロ塚を築地に設置する意義を強調して、周囲にはたらきかけていた。マグロ塚そのものは現在は夢の島の第五福竜丸展示館に背後に置かれている。なぜ築地にこだわったかといえば、やはりビキニ事件でマグロそのものが廃棄されたところでもある、ということや街なかの平和な日常生活でふと目にするということが重要だと語っていた。

大石さんの生涯を短く紹介しているサイト(NHK戦争証言アーカイブス)によれば、父親が亡くなり、マグロ漁師ならばお金が稼げると中学を中退して漁師となり、54年のビキニ事件で被ばく、その事件の見舞金が入ったことにより、今度は貧しい地域のなかで孤立してしまう。身近な人々たちからも心ない言葉が浴びせられてきつい思いをしたそうだ。

周囲の偏見などに耐えきれず、東京に移り住んでクリーニング店で働く。1983年に故あって中学生に自らの被ばく体験を語った。それがきっかけとなり証言活動をするようになり700回以上の講演を重ね、著書も「死の灰を背負って」(1991年、新潮社)など5冊を出版した。近年は福島の原発事故にも言及し核廃絶を訴えて、さらに放射能の被ばくの象徴としてのビキニ事件を知らせるマグロ塚設置の運動もしていた。老人ホームに入所していたが、そこでも体験を伝えていたという。

■決意や語り部としての想いを以下に転載する

「世の中はまた戦争になりそうだというような、そういうようなことをやっぱり考えたんでしょうね。それで、やっぱり言わなきゃいけない、俺たちが言わなきゃこういうことはまた起こるという、そういうほうへとだんだんに考え方が変わっていったように思うんです。だから、何と言うかな、私の核兵器あるいは反対というのは、よく言うんですけども、運動じゃなくて、恨みということが非常に強く自分の中にあって、そんな悪いことが世の中に通ってたまるかというような、そういう強い反発心みたいなものが徐々にできていったように思うんです。」

「活字は、50年、100年先の人でも、めくってくれれば、この事件があったこと、どういう形であったかということが伝わるだろうと思って書き始めたのが私の本なんです。ですから、学生でも子どもでも分かるような形で、ビキニ事件というものを最初から現在に至るまでのことを書いてみたんですけれどもね。 それも、福島の事件が起こって、多少そのことを見てくれた」

   (NHK戦争証言アーカイブス:大石 又七さん)
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0001810403_00000

(編集部)


■参考
築地にマグロ塚を作る会   http://tsukijimaguro.blogspot.com

第五福竜丸乗組員の大石又七さんが新著『矛盾』を発刊しました(原水協通信 on the web)
 矛盾