君が代不起立への処分を跳ね返した根津公子さん
東京都立学校の卒業式で、君が代斉唱の際に起立しなかったとして、2009年に停職6カ月の懲戒処分を受けた元教諭の女性2人(根津公子さんと河原井純子さん)が処分取り消しを求め裁判を起こした。
2018年5月の東京地裁判決(一審)は、不起立の頻度が高いことなどから一人の処分は適法と判断していた。
2020年3月26日の東京高裁は1人だけ処分を取り消した一審東京地裁判決を変更し、もう1人の処分も取り消した。これが高裁だった。
都の側は「処分は適法」と、最高裁に上告していたが、今回(2021年2月17日)、「本件を上告審として受理しない」として、高裁判決が確定した。
新聞各紙でも伝えられた。
東京都立学校の卒業式で君が代斉唱時に起立せず、停職6カ月の懲戒処分を受けた元教諭の女性2人が都を相手取り、処分の取り消しと計600万円の賠償を求めた訴訟で、最高裁第2小法廷(三浦守裁判長)は双方の上告を退ける決定をした。17日付。2人の処分を取り消し、賠償請求は棄却した2審東京高裁判決が確定した。
(「産経新聞」2021年2月18日付HP)
都の処分攻撃を跳ね返した根津公子さんの地裁判決と控訴審判決についての文書を以下に転載する
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根津2009年「君が代」
不起立停職6月処分案件の地裁敗訴判決と
高裁勝訴判決との比較(根津公子)
当たり前のことだけれど、裁判官たちは同一の憲法及び法令に照らして判断し判決を書きます。なのに、判決が真逆になる場合がかなりあります。裁判官たちの良心が働くか否かの違いで。今回の最高裁決定を受けて、そのことを改めて思います。翌日には、福島から千葉県に避難した人たちの控訴審勝訴判決もあったので、なおのことです。
ここでは、「根津の処分は適法」の結論ありきの地裁判決(2018年5月24日春名茂裁判長)と高裁判決(2020年3月25日 小川秀樹裁判長)を比較します。高裁でも棄却された損害賠償請求については触れません。
■地裁判決
判決直前の法廷では、尋問(処分案を作成した吉原眞一郎都教委人事部服務担当副参事・河原井・根津)が終わるや、裁判官3人は法廷を離れ15分後に戻ると突如、春名茂裁判長が判決日を言い渡しました。通常は、次回法廷で最終の主張をして結審、そして次々回が判決となります。抗議すると、裁判長は「もう判断はできる」という趣旨のことを言って、退廷してしまいました。尋問での証言をもとにした最終準備書面は必要ない、読まなくても判断できるというのです。
尋問のために吉原副参事が提出した陳述書の一部は前年の担当者の陳述書のコピペでした。2008年の2~3月、私はこのままクビにされるのはたまらないと思い、「私をクビにしないで」と都教委に日参しました。それを吉原副参事は2009年も続けたと陳述し、尋問でもそういう事実が「ありました」と嘘の証言をしたのです。また、処分量定を決めるのに私の勤務状況や他県との違い等については何の検討もせず、機械的に停職6月処分を行ったと証言しました。しかし判決は、嘘には目をつぶり、他県との違いについては、「吉原証人は全く考慮していないという趣旨を述べるものではないから、都教委が考慮事項を考慮していないと認めることはできない」と都教委を救済したのです。
本人尋問で私は、都教委が校長に「根津は(10月に復帰して)11月にはいなくなる」(免職)と言ったことや、私の業績評価を低く書き換えさせたことなど、都教委の支配介入がいかにひどかったかを、校長の音声を添えた証拠を提出して証言しました。音声が何よりの証拠であるのに、判決は「人事評価の書き換え等に関する違法不当な指示命令をしていたことを認めるに足りる証拠はない」と切り捨てました。「証拠はない」と考えたのならば、裁判所は「いなくなる」発言をした菊池管理主事と、書き換えさせた都教委西部学校経営支援センター支所の杉田支所長の尋問を行い、「証拠はない」ことを立証すべきでした。しかし、その努力はせずに、判決を書いたのです。これらは、停職6月処分が適法か否かの重要な判断材料となるはずでした。
こうした審理打ち切りに、根津敗訴判決は予告されたも同じでした。
◇判決は、不起立行為ではなく、私の人格を裁いた!
判決を一読して、これは行為をではなく私の人格を裁いた、と思いました。
私の2008年停職6月処分を適法とした地裁判決(清水響裁判長 2017年5月)も「根津は、あえて勤務時間中に勤務場所における本件トレーナー着用行為を繰り返し」「校長らの警告も無視して本件職務命令が発せられるような状況を自ら作出し・・・着用を続けた。このような一連の根津の言動は、・・・やむをえず不作為を選択したというものではなく、自ら学校の規律や秩序を乱す行為を積極的に行った」と、私が極悪非道なことをしたかのように書き、このことと「過去の処分歴」の2つを、処分を加重してよい「具体的事情」としました。事実は、汚れてもいい作業着として着用しただけの不作為行為であったのに。この判決もひどいと思いましたが、それに輪をかけたのが2009年地裁判決でした。
2008年事件は都教委が作出したトレーナー問題がありましたが、今回はトレーナー着用禁止の職務命令もなく、処分を加重してよい「具体的事情」はありませんでした。だから、2012年最高裁判決に従えば、処分加重はできないはずでした(2012年最判は、同一の「過去の処分歴」を何度使っていいかについては触れていません)。
また、唯一私の処分を取り消した2007年停職6月処分取消訴訟の2015年須藤高裁判決・2016年最高裁決定は、「過去に不起立行為以外の非違行為によって3回の懲戒処分と、不起立行為によって3回の懲戒処分と2回の文書訓告を受けているものの、これらの根津の行為は、既に停職3月とする前回停職処分において考慮されていることや、本件不起立が卒業式での着席(不起立)行為であって、……
処分を更に加重しなければならない個別具体的事情は見当たらない」として、「過去の処分歴」を「具体的事情」として使い回すことをしませんでした。「過去の処分歴」の使い回しを禁じたと言うことです。これが最新の決定なのですから、今回の判決はこれを無視してはならないはずでした。
しかし、2008年事件のすべての判決、2009年事件地裁判決ともに、2016年最高裁決定を無視し、「過去の処分歴」を4度目、5度目の「具体的事情」としました。2009年事件地裁判決が言う「過去の処分歴」には、2008年事件判決が「具体的事情」としたトレーナー問題も加わりました。「自己の思想及び良心と社会一般の規範等により求められる行為が抵触する場面において、校長の職務命令に違反して、勤務時間中に、『強制反対日の丸 君が代」または、『OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO』等と印刷された服を着用するという職務専念義務違反行為に及ぶなど、あえて学校の規律や秩序を乱すような行為を選択して実行したものも含まれており、規律や秩序を害した程度は相応に大きい」と。
判決は続けて、「①本件不起立自体は……着席したという消極的な行為……であること、②平成19年3月30日付停職6月の処分が取り消されていること等を考慮しても、③過去の処分に係る非違行為の内容及び頻度、重要な学校行事等における教員の職務命令違反であるという……諸事情を綜合考慮すれば、……具体的事情があったものと認めることができる。」(①~③は筆者)と。
判決は①②を「考慮した」と書きますが、考慮した形跡がないまま、③の結論に行きます。
「過去の処分」を「具体的事情」にすることは二重処分だとこちらが主張してきたことについて判決は、「前回の平成20年3月の停職6月の処分を更に加重するものではなく、前回と同じ量定の懲戒処分を科すものであるところ、一般的に、同じ態様の非違行為を繰り返している場合、前回の処分よりも軽い処分とせず、同一の量定の処分を行うことは、公務秩序を乱した職員に対する責任を問うことで、公務秩序を維持するという懲戒処分の意義や効果に照らし不合理であるということはできない。」と、加重処分ではないと開き直ります。こちらは、複数回体罰をした教員の体罰事案では、前回処分よりも次の処分が軽い事例を列挙して主張しましたが、判決はこれについても全く無視し、「前回の処分よりも軽い処分とせず」と平然と嘘を判示します(2007年事件須藤高裁判決は、これについても認め、判決で触れました)。
また、「平成19年3月30日付停職6月の処分が取り消されていること等を考慮しても」と言いながら、「同判決は本件とは事案を異にする高裁判決であって」とだけ言い、考慮の跡はありません。更には、「同判決も、前回と同一の停職3月の処分を科すことについてはこれを許容する余地があることを前提としているものと解される」と、都合よく須藤判決を援用します(須藤判決は、前年の停職3月処分が2012年最判で適法と判断されたことを、最判を判断基準とする判例主義の性質上、否定できなかった・しなかっただけのことです)。
こうして見てくると、判決は先に結論ありきで、しかも、2009年の私の不起立行為を裁いたのではなく、「過去の処分歴」を使いまわして、私の人格、思想を裁き、私を全否定したものです。「他の人の不起立は多少大目に見るが、思想犯根津の不起立は容赦しない」と。
ところで、春名裁判長たちの教育観はあまりにお粗末。「そもそも学校教育法及びこれに基づく学習指導要領において定める…*教育活動は、一定の価値観やこれに基づく価値の選択を前提とせざるを得ない*ものであるから、その意味で価値中立的であることとは両立しえない」「(君が代起立斉唱を求める)本件職務命令は、…教員らが、各人の個人的見解は別にして国旗及び国歌として定められたものを尊重する態度を示すことにより、生徒らにも同様の*態度が涵養*され」と判示します。国が「一定の価値観」を注入し「涵養」することが教育というのですから。こんな裁判官たちに裁く能力や権限はないと思います。
最悪な判決を前に、「自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては、自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり、…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」と判示し、私の停職6月処分を取り消した2007年事件須藤高裁判決・最高裁決定が出たことの意味の大きさを思います。
■高裁判決
*小川判決が、停職6月処分は都教委の裁量権の逸脱濫用とした理由
判決は、これまで最高裁が処分適法と判じた根津の処分については、どれもが重い処分をしてよい「相当性を基礎付ける具体的事情があるということができる」と言い、08年処分では「トレーナー着用行為をしないよう職務命令を受けたにもかかわらず」着用したのだから、停職6月処分が「重すぎて相当ではないとは言えない」と言い、今回は「停職3月の懲戒処分よりさらに重くすることはやむを得ないというべきである」と言いました。そこまで言ったうえで、しかし、停職6月処分は、「控訴人根津の過去の処分歴や不起立行為が繰り返されてきたことを考慮しても、なお正当なものとみることはできない」「懲戒権者としての都教委に与えられている裁量権の合理的範囲を逸脱してされたものと言わざるを得ず、違法なものというべきである。」と判じました。初めの部分の酷い判示は、冷静になって考えると、最高裁の決定を覆させないためのことなのかもと思いました。
都の裁量権濫用の理由は、以下の3点です。
① まずは前提となる、停職6月処分の重さについて。
「職員の懲戒に関する条例によれば、停職期間の上限は6月とされていて、停職期間を6月とする停職処分を科することは、さらに同種の不起立行為を繰り返し、より重い処分が科されるときには、その処分は免職のみであり、これにより地方公務員である教師としての身分を失うことになるとの警告を与えることとなり、その影響は、単に期間が倍になるという量的な問題にとどまらず、身分喪失の可能性という著しい質的な違いを被処分者に意識させることになり、これによる被処分者への*心理的圧迫の程度は強い*」としました。
② 次に、「過去の処分歴」を「具体的事情」として繰り返し使うことを実質禁じた、2007年事件須藤判決に照らし、また、根津の不起立はほかの人の不起立とは異なるのかを問います。
「ア.控訴人根津について*過去に懲戒処分や文書訓告の対象となったいくつかの行為は、…平成18年3月の懲戒処分について考慮され*(ているから、「過去の処分歴」を「具体的事情」にしてはならない:筆者補足)、その後、同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けたという事実は認められない上、イ.本件根津不起立行為は、以前に行われた掲揚された国旗を引き下ろすなどの積極的な式典の妨害行為ではなく、*控訴人河原井と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的な行為*であって…」(ア、イは筆者)と言い、ア、イから導き出される結論は、停職6月処分は都の裁量権の逸脱濫用だとしました。
この部分についての地裁判決は、「ア.本件不起立自体は……着席したという消極的な行為……であること、イ.平成19年3月30日付停職6月の処分が取り消されていること等を考慮しても、ウ.過去の処分に係る非違行為の内容及び頻度、重要な学校行事等における教員の職務命令違反であるという……諸事情を綜合考慮すれば、……具体的事情があったものと認めることができる」(ア~ウは筆者)。ア,イを「考慮した」と書くが、考慮した形跡はまったくないままにウの結論に行きました。
③ 地裁判決が「具体的事情」としたトレーナー着用について。
「平成20年3月の懲戒処分がされた後は、本件根津懲戒処分時まで、控訴人根津が、勤務時間中に、平成19年度の本件トレーナー着用行為のような行為をしたことはなく、また、その他の非違行為がされたことについては、これを認めるに足る的確な証拠はない」と判じ、前年度のトレーナー着用を「具体的事情」とはしませんでした。
■参考
「解雇させない会」HP
http://kaikosasenaikai.world.coocan.jp/