関東大震災の朝鮮人犠牲者…追悼と責任

民俗楽器ソヘグムによる追悼演奏

慰霊碑の前で民俗楽器ソヘグムによる追悼演奏

千葉県船橋市の市営馬込霊園で9月5日(日)に「関東大震災98周年朝鮮人犠牲者追悼式」が慰霊碑の前で開かれ、約110人が参列した。主催は在日本朝鮮人総連合会県西部支部などでつくる実行委員会。

千葉県では1923年の関東大震災の発生した9月1日の翌日から9日まで朝鮮人への虐殺事件が起きたという。千葉県では329名が犠牲になったといわれている(全体の総数は6647名)が、当然ながら確定したものではない。それは官憲などが遺体の隠蔽などの妨害をおこなったからだという。(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』創史社 2011年)

式は黙祷、献花、呉学成委員長の追悼の辞、韓国人の僧侶によるお経の後に、朝鮮の民俗楽器によるアリランが奏でられた。弦を引いて引き伸ばされた、ゆったりと落ち着いた響きが静かな霊園内に染み渡る。

地域首長からの弔電紹介があり、最後に参列者による焼香で解散となった。この後は八千代市高津山観音寺の普化鐘楼・慰霊碑の前で「関東大震災98周年慰霊祭・巡回供養」が開催されたが、コロナの影響で関係者による縮小限定となった。

当日配布された資料によるとこの馬込霊園には3つの碑があり、いちばん大きな「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑」は1947年に在日朝鮮人を中心として健立され、碑の下には犠牲者の遺骨が安置されている。2つ目は左側に立つ「法界無縁塔」で船橋の住職が中心となり建てられた。3つ目は虐殺現場にあった碑で工事の関係でここに移送されたものだ。

千葉では成田と船橋で戦前に碑が建てられた。関東一帯では11の墓碑が建てられていたが、碑に朝鮮人虐殺の事実は明記されてはいなかった。それでも戦前において在日朝鮮人の労働組合や宗教団体による追悼や抗議の運動がおこなわれていたことは特筆すべきことである。当然ながら当局の弾圧が激しく、1938年以降は壊滅状態だったという。(山田昭次 前掲書)

そして「日本人の知識人・民衆も国家の朝鮮人虐殺の恥の上塗り行為を粘り強く批判・抵抗することもなく、国家責任追及の課題は戦前ではほとんどなし得なかった。その結果、その課題は戦後に改めて取り組むべき課題として残された」のだが、例えば朝鮮人を虐殺したのが「日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆」であることを初めて追悼碑(墨田区荒川河畔)に明記されたのが2009年だという。(山田昭次 前掲書)その意味でまだこれからだ。 

日本の社会と民衆の虐殺の責任追及は立ち遅れている。それどころか小池都知事は東京の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送らず、一部の右派団体は虐殺を否定する集会を同時に開催し、妨害をするようになっている。

歴史の針を逆に戻すことは許されない。戦前に劇作家の秋田雨雀は日本による朝鮮の植民地支配を批判し「日本人の持っていた国民教育或いは民族精神に大きな欠陥」と認識して、民衆の精神を支配している日本国家からの意識解放を呼びかけた。

ヘイトスピーチがはびこる今、秋田の嘆きは今もって心に響く「『人間』を『人間』だと思えない私達日本人は一体何な教育を受けて来たのだろう? ああ、簡単なこの『人間』ということ!」(秋田雨雀『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』西崎雅夫編 ちくま文庫 2018年)

(本田一美)

船橋市・馬込霊園での朝鮮人犠牲者追悼式

船橋市・馬込霊園での朝鮮人犠牲者追悼式

関東大震災直後の朝鮮人虐殺 忘れない 負の歴史 “船橋で追悼式”“八千代で慰霊祭(東京新聞 2021年9月7日)
https://www.tokyo-np.co.jp/article/129373

[ルポ]関東大震災の虐殺から93年、70年間続いた朝鮮人慰霊祭(ハンギョレ新聞 2016-09-02)
http://japan.hani.co.kr/arti/international/25074.html