文京区で「原爆の図」を見る
「原爆の図」展が11月11日から14日まで、文京区の文京シビックセンターで開かれていると知り出かけてみた。今回は全15部からなる作品の「原爆の図」のうちの「火」と「少年少女」の原寸大レプリカ(縦1.8×横7.2m)などを展示していた。市民団体「原爆の図を見る会・文京」が2005年から毎年開き、今回17回目だという。「原爆の図」といえば、広島出身の日本画家・丸木位里(いり)(1901~95年)と、洋画家・絵本作家の丸木俊(とし)(1912~2000年)の共同制作による畢生の屏風絵画である。
「原爆の図」そのものはずいぶん前に労働組合の平和のとりくみで東松山にある丸木美術館にお邪魔して、鑑賞することができた。その時は多くの展示されている作品に接し、その作品群に圧倒されて、うまく消化できず美術館を後にした記憶がある。
さて、文京シビックセンターの会場では「火」(第2部)と「少年少女」(第5部)の展示の他に「核兵器禁止条約の現状」及び「ヒロシマの被爆樹」、サーロ節子氏(カナダ在住の被爆者・反核活動家)の国連演説、国連で展示された原爆展パネル「核のない世界へ ヒロシマ・ナガサキ」(日本被団協作成)、福島原発事故写真パネル、関連の図書、DVD、そして会場の一角ではモニターで映像作品が視聴できるようになっていて、別の机では千羽鶴用折り紙が用意されていた。
「原爆の図」は制作されてから、ずいぶんと年月を経ているが、平和運動のなかで反核・反戦の象徴的な絵解き・シンボルとして作用してきた。今回私が見た「原爆の図を見る会・文京」でも<原爆の被害の実態と平和の尊さ、世界で最初の被爆国の市民として原発を含む核の廃絶を訴えるために、毎年「原爆の図」を展示してきた>のだが、一般的に反核・平和の象徴として消費されてきたように思う。
次のような小沢雅子の言葉を自戒を込めて引用しよう、「原爆の図」は「伝説化、神話化されてきた一方で、そこに何が描かれているのかを知る人は少ない。絵画として論じられ戦後美術史のなかに位置づけられることもなく、作品が背負った社会的な意味について検証されることもなかった」(小沢雅子『「原爆の図」』岩波書店 2002年)として、「原爆の図」が描かれてからの反響などをあとづけている。
初期「原爆の図」(1950年)は。人びとの様々な被爆体験が描かれ、1954年の第5福竜丸事件以降、国民的「被爆体験」はその時代の平和思想の一つの中核となり、運動のシンボルともなった。その後は平和運動が輝きを失っていくなかで「原爆の図」も沈潜化し、1970年のアメリカ展を景気に後期「原爆の図」が制作されて、再び注目を集めたが、初期の「原爆の図」の復権には結びつかなかった(以上は前掲書の「はじめに」の部分を要約)。
あらためて「原爆の図」の全体を紹介しておこう。第1~3部「幽霊」「火」「水」(初期三部作)は1950年に発表された。翌年には第4部「虹」、第5部「少年少女」が制作される。
第6部「原子野」は1952年に描かれ、第7部「竹やぶ」、第8部「救出」はともに1954年制作。以上が被爆直後とその後の救援の風景で、象徴的な世界から具体的・写実的世界へと進んでいる。
1955年は前年に第5福竜丸のビキニ事件が起こり、それに対して第9部「焼津」と第10部「署名」が描かれる。そして第11部「母子像」で一旦制作は中断する。
1967年に「原爆の図 丸木美術館」が開館し、第12部「とうろう流し」(1968年)、第13部「米兵捕虜の死」(1971年)、第14部「からす」(1972年)は戦争責任の問題や朝鮮人被爆者問題が突きつけられた状況での作品だ。第15部「長崎」(1982年)で完成する。
「原爆の図」とそれをとりまく出来事は、戦後の日本と世界にいくつもの波紋をつくり、大きな遺産となっている。それらの事象や歴史を描くことは筆者の手に余るが、「原爆の図」に向き合い、描かれたものを読み解くことはできる。是非、「原爆の図 丸木美術館 」へと足を運ぶか、ここでは絵を紹介できないのでネットでサイトにアクセスしてほしい。また、関連する書籍を参照するのもいいだろう。小沢(こざわ)節子著『「原爆の図」描かれた〈記憶〉、語られた〈絵画〉』(2002年、岩波書店)、岡村幸宣著『《原爆の図》全国巡回』(新宿書房)などがある。
(本田一美)
原爆の図 丸木美術館
https://marukigallery.jp/