戦時下の犬と「忠犬ハチ公」の誕生

渋谷駅頭のハチ公像

渋谷駅頭のハチ公像

はじめに

犬ほど人間の生活にぴったり寄り添ってきた動物はいないだろう。

犬は人間の生活のあらゆる場面で、持ち前の能力を発揮してわれわれの暮らしを助けてくれる。しかし、圧倒的多数の犬は、今も昔もペットとして飼われ、家族の一員として苦楽をともにしてきた。

アジア・太平洋戦争の時代は、このペットたちにとっても受難の時代であった。1940年帝国議会で北昤吉議員によってなされた、いわゆる「犬猫不要論」の演説が象徴するように、有用な犬以外の「ムダ飯を食う犬猫は全部殺してしまえ」という時代の空気の中で、飼い主も犬も、世間の厳しい目の晒されながら、身を縮めて生きる日々を強いられた。

戦争末期には、犬の献納運動が各地で繰り広げられた。「決戦下、犬は重要な軍需品として立派にお役に立ちます。何が何でも皆さんの犬をお国へ献納して下さい」と隣組回覧板で呼びかけられ、泣く泣く警察署に供出された犬たちは薬殺処分に付された。毛皮は兵士の防寒着に、肉は食用や肥料にというふれ込みであったが、実際には処理されないまま放置されたものもあり、どれほどが、「お役に立った」のか不明である。せっかくの犠牲が文字通り「犬死に」になったケースが多かったのではないか。

戦場の犬

戦場での華々しい活躍が喧伝された軍犬は、実際にも、比喩としても戦時下を象徴する犬である。総力戦には馬、犬、鳩、駱駝、象、騾馬などたくさんの動物が「もの言わぬ戦士」として戦場に送り込まれた。馬は100万頭、犬は10万頭とも言われている。

軍用適種犬のうち、軍の手に移って部隊に配属された犬を軍犬と呼ぶ。当時、軍用適種犬として認定されていたのは、シェパード、ドーベルマン、エアデールテリアの三種であったが実際にはシェパードが大半を占めていた。日本犬は軍用犬には不向きとされた。秋田犬を除いて、総じて小柄なこと、訓練者以外の命令には従わない傾向があること、任務を放棄して獲物を追いかけることなどがその理由であった。

白兵戦の時代ならいざ知らず、火器中心の近代戦において、軍犬の用途はあくまで、伝令、歩哨、斥候、捜索など、兵士を補完する作業犬であった。しかし、戦場において勇敢に闘う犬のイメージは生き続け、軍国主義下の犬の表象として、国民精神の鼓舞に大きな役割を果たした。

満州事変時、「お国のために勇猛果敢に闘い、名誉の戦死を遂げた」とされ、軍犬の金鵄勲章にあたる、甲号功賞をもらった「金剛」と「那智」の話は代表的なもので、国民を大いに熱狂させた。このエピソードは、伝令犬として戦場に駆り出された3頭のシェパードが行方不明となって、うち二頭の遺骸が後日瓦礫の中から見つかったという実話にもとづいている。もっとも、見つかったうちの一頭の名は「メリー号」であり、「金剛」の行方はついにわからずじまいであった。しかし時代の空気の中で、犬の名前は入れ替えられ、名誉の戦死を遂げた忠犬として、納まりのいい物語に仕立て直された。

1935年には小学国語読本に「犬のてがら」として載せられ、教育現場にも利用された。その指導要旨には「壮烈無比な最後を遂げた感激美談を味読せしめることによって、勇武果敢の精神を養い、国体観念の旺盛を期す」とある。金剛や那智をはじめとする「戦場の犬たち」はこの時代の児童文学や紙芝居、漫画、映画の主要なテーマとなり人気を博した。そこに描かれた犬たちは、これから成長して皇軍兵士となっていく子どもたちの模範となるべき存在であった。

軍犬の歴史は、日本本土に先立ち、満州に始まる。1928年に満鉄は撫順の炭鉱から掘り出した石炭の盗難を防ぐために、ハルピンからシェパード、ドーベルマンなどを購入し警備に使用した。満州事変が勃発、抗日運動が激しくなると保線対策に大量の警戒犬が投入された。関東軍が満州で戦火を拡大すると、軍用犬の需要が一気に増し、1933年には遼陽に関東軍軍犬育成所が開設された。斥候に使用される犬には声帯除去手術が施された。

一方日本国内でも、満州事変、上海事変を機に、「軍犬報国」を旗印として陸軍省後援のもと社団法人「帝国軍用犬協会」が作られ、民間の所有するシェパードなどの受け入れ窓口となった。ここに登録され資質検査と訓練検査に合格した犬は軍部に買い上げられ、軍犬として基本的な訓練を施されたのち戦地に送られた。しかし、送り出す側と受け入れる側にはしばしば齟齬が生じた。

「軍犬の利用成果を誇張したる結果は、軍犬は生まれながらにして各種の勤務に服し得るものなるが如く、或は直接戦闘に必要なる兵器と匹敵すべきものなるが如く認識せしめたるは最も遺憾とする所なり」」(関東軍軍犬育成所報告書「満州に於ける軍犬事情」1938年)。現地で応用訓練しきれず、実戦には役立たなかったが、兵士の友として過酷な戦場の慰め役となった話は、兵士の手記に描かれているところである。

「忠犬ハチ公」の誕生

2013年は「忠犬ハチ公」の生誕90年にあたり、ゆかりの地東京都渋谷区の郷土博物館では「特別展ハチ公」が催された。好評を博し、会期は一週間延長となった。1987年に仲代達矢主演で映画化された「ハチ公物語」はその年の邦画興行収入の第一位を占めた。2009年にはアメリカにおける日本犬人気を背景に、リメーク版「HACHI―約束の犬」がリチャード・ギア主演で映画化され、話題を呼んだ。

映画「ハチ公物語」ブルーレイジャケット

映画「ハチ公物語」ブルーレイジャケット。(1987年制作 配給:松竹富士 キャスト:仲代達矢、八千草薫他)

飼い主の死後も毎日渋谷駅に出向き、帰りを待ち続けた健気な犬として、ハチ公人気は今なお健在である。渋谷駅前のハチ公の銅像は今も格好の待ち合わせ場所となっている。

しかし、日本が軍国主義に突き進む中、軍犬とともに、忠義や愛国や犠牲のイメージを表象する、もう一方の強力なシンボルとして「ハチ公」が果たした役割を忘れるわけにはいかない。

実際のところ、飼い主の上野英三郎博士は駒場の帝大農学部に徒歩で通勤しており、渋谷駅を使わなかったわけではないが、ハチが毎日渋谷駅に送り迎えをしていたという通説は誤りである。ハチが飼い主の上野博士の家にいたのは一年ちょっとに過ぎず、1935年3月に11歳で死ぬまでの大半を、上野家に出入りしていた植木職人の小林菊三郎のもとで過ごした。ハチの渋谷駅通いが始まったのは小林のところに来てからまもなくのことであった。当初は野良犬同然の風体で、おとなしいハチは道行く人から追い払われたり、蹴られたり、顔にいたずら書きされたり、散々であったという。

ハチの運命が劇的に変わったのは、1932年10月4日のことであった。この日の朝日新聞朝刊に「いとしや老犬物語―今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」という記事が写真入で掲載され、大反響を巻き起こした。薄汚く冴えない犬は一夜にして大スターとなり、やがては忠君愛国のシンボルに祭り上げられていく。

戦争に突き進む不安な空気のなかで、ハチの「美談」は一服の清涼剤のように、熱狂的に迎えられた。銅像建立にあたっては帝国の内外から多額の寄付金が寄せられ、戌年の1934年4月21日に挙行された除幕式には、紅白のリボンで飾られた老犬ハチも列席した。

ハチの話を伝え聞き感動したヘレン・ケラーは、1937年に来日した折に「神風号」という秋田犬を贈られ、アメリカに連れ帰っている。ハチ公人気に着目した文部省は、子どもたちに忠孝の思想を植え付け天皇の赤子に育て上げるうえで格好の教育モデルであると判断、1935年発行の『尋常小学校修身書巻二』に「オンヲ忘レルナ」と題して「忠犬ハチ公」の物語を載せた。

しかし当時にも、時代の空気に抗い、「主への恩を忘れぬ忠犬」という物語に異議をはさんだ人たちがいなかったわけではない。長谷川如是閑は「自己催眠的の、群集心理的の昂奮に陥ることが問題なのである」と批判し、動物生態学者の平岩米吉は「犬の世界には『恩』もなければ『忘恩』もないのだ」と、人間の思惑を犬に投影することを厳しく戒めた。若き日の大岡昇平も、ハチは主人を待って駅に来たわけではない。ただ、駅の周辺や店の当たりをうろついて食べ物をくれるのを待っていたのだと推察した。1934年に公開された山本嘉次郎監督の映画『アルプス大将』には生前のハチが出演しているが、山本は立派な銅像のハチ公と焼き鳥屋の前をうろつくハチを対比させ、主人公の少年に「こっちが本物ですよ」と言わせている。

戦争末期、金属の不足から、遂にハチ公の銅像も供出されることになった。盛大な別れの式典が催され、死しても弾丸となって敵の飛行機を撃ち落としてくれるよう、との願いを込めて送り出されたが、船で浜松に運ばれたのち、溶かされて列車の部品になったという。

戦後、ハチ公像の再建にあたって、「忠犬」は軍国主義的だとして「愛犬」、「名犬」などの呼称が検討されたが、結局にところGHQは、ハチは唯主人に忠実であったのだとして「忠犬」を使うことを許した。1948年8月15日、「復興と平和の象徴」として、新生ハチ公像の除幕式が挙行された。台座の字には地元の小学生の作品が選ばれた。戦前の軍国主義に結びつくとして式典での「万歳三唱」は禁止されたので、主催者は代わりに犬を使い、三回吠えさせたという。

「ハチ公」の展示をめぐって

上野の国立科学博物館にはハチの剥製が展示されている。ハチの剥製化は生前から計画され、死の三ヵ月後1935年6月15日に前身の東京科学博物館で公開された。生前のハチは左耳が折れ、尾も垂れていたが、出来上がった剥製の耳は両方とも立てられ、巻き尾となって、健康で若々しい「純血の秋田犬」として甦った。

ハチの犬種については、当時から耳の形や、垂れた尾などから雑種説がささやかれていた。ナショナリズムの高揚を背景に1928年に設立された「日本犬保存会」は、日本犬の血統の純粋性を称揚する立場から、ハチの残念な形状は皮膚病や外傷のせいで、「外国犬によって汚染されたからではない」と反論した。折柄、秋田犬は1931年に、犬としては初めて国の天然記念物に指定されていた。

ハチの展示をめぐって、2012年3月、東京都議会の土屋敬之議員は「ハチ公は一般動物コーナーの秋田犬として展示されているだけで何の説明もない。全世界に感動を与えた忠犬ハチ公が単なる犬として展示されていることはあり得ない」「展示は民族のこころを基底にしなければ意味がない。」と科学博物館に抗議した。当時のプレートには「秋田犬(ハチ)秋田県の大型在来犬種。古くからマタギ犬として利用されてきた」とだけ記されていたが、この抗議ののちに「ハチは一歳のときに飼い主が亡くなったが、その後も飼い主が利用していた渋谷駅に通い続けた。飼い主を待ち続けた犬として新聞記事で紹介され、人々から親しみを込めて『忠犬ハチ公』と呼ばれた」との説明が書き足された。

博物館の同じ展示室には、1958年の南極探検隊に同道、昭和基地に繋がれたまま置き去りにされ、翌年生存が発見された二頭のカラフト犬のうちの「ジロ」の剥製と、1934年に秋田犬に続いて天然記念物に指定された甲斐犬の剥製が展示されている。

戦中と戦後、国威発揚の役割を担った犬たちが三頭、肩を並べているさまは「科学博物館」に似つかわしくない光景だ。加えて、三頭の背景に配されているのは月岡芳年作の「桃太郎鬼が島行」の掛け軸である。教材として、また国民童話として、桃太郎とお供の犬、猿、雉による鬼征伐の話は「日本とそれより劣るアジアの盟邦が白人帝国主義者を追い出して自分たちの優越を築く」(ジョン・ダワー)戦争拡大のシンボルとして大いに利用された。

これら三頭と一幅の展示物が、礼賛され必要とされた時代から今日まで、来歴の検証もまともにされないまま漫然と置かれてきたとすれば、その歴史感覚の鈍さに驚くばかりである。土屋都議に足をすくわれるのも無理ないことだ。

国威発揚の役割を担った犬たち(科学博物館)

国威発揚の役割を担った犬たち(科学博物館)

おわりに

戦時下、戦場の犬は「勇敢に闘った」と称揚され、銃後の犬は「恩義を忘れなかった」と顕彰された。どちらも脚色された物語であったが、人々の心を捉えたことには間違いない。

古来犬は人間にもっとも近しい動物として様々なイメージを付託されてきた。今も権力者にとって、犬は自分の人間性を垣間見せるのに欠かせない小道具である。ブッシュ・ジュニアはイラク戦争を決断する苦悩をスコティッシュ・テリアのバーニーに見守らせ、オバマは鳴り物入りで、ポルトガル・ウォータードッグを「ファースト・ドッグ」として迎えいれる。プーチンは雪原で日本から贈られた秋田犬の「ゆめ」と戯れて、強面にも意外な無邪気さがあることを演出する。それもこれも、彼らがたとえ大の犬好きであったとしても、イメージ戦略であることに変わりはない。人心を掴むのに犬ほど重宝な動物はいないだろう。犬は、人間のそばにあって、勇敢や忠実や素朴や愛らしさの表象として利用され、消費されてきた。犬と人間の物語は、私たちの涙腺を刺激し、心を和ませるが、それは犬の思惑とは関係ないところで人間が作り上げた物語であることを忘れてはならない。
(吉村 真理子/愛犬家)
参考文献
犬の現代史 今川 勲 現代書館 1996年
犬の帝国 アーロン・スキャブランド 岩波書店 2009年
犬の行動と心理 平岩米吉 築地書館 1991年
ハチ公文献集 林正春編 1991年 
特別展 ハチ公 カタログ 2013年

*2014年「レッツ」掲載のものに手を加えました。