「登戸研究所」成り立ちと地域を知る―スタンプラリーも開催中!
秋も押し詰まった11月20日に、この時期としては気持ちの良い晴天の日に生田の明治大学校舎へと足を運んだ。「生田祭」で華やいでいるなか登戸研究所についての講演・イベントがあるからだ。
登戸研究所とは旧日本軍が秘密戦(スパイ・謀略・宣伝など)を主に行うための兵器・資材を研究・開発するために設置した研究所で。その存在は秘密となっていた。戦後になり生田にあったこの研究所を明治大学が建物ごと取得し生田キャンパスが開設された。明治大学はこの建物の一部を保存・活用して「明治大学平和教育登戸研究所資料館」として開設している。
現在「『登戸』再発見 ―建物と地域から追う登戸研究所―」(第7回企画展―17年の3月25日まで)というは企画展が開かれている。地域での「登戸研究所」の成り立ちを掘り下げた内容だ。生田校舎の中ほどにあるメディアホールで「建物と地域から追う登戸研究所の姿」と題された山田館長の話があった。
建物と地域から追う登戸研究所の姿
昔は生田村があり隣接していたのが登戸です。おおもとは日本高等拓殖学校というブラジルへの移民を育成する学校があり、当時は生田村・稲田登戸を併用していたようです。その後は新宿にあった陸軍科学研究所の「登戸実験場」として生田地域に1937年設置されます。当時は新宿からの「稲田登戸」という駅が終点で(現在の向ヶ丘遊園駅)それで「登戸研究所」の名前がついたと推察されます。そこから、郊外電車で乗り換えて「東生田」(現・生田)駅につながります。
当時の建物の周辺には登戸研究所の職員の寮や住宅、日本電気・住友通信工業の研究所があり、玉川製紙の分室、小田急線と南武線の引き込み線など関連施設がいくつかありました。
日本電気・住友通信工業の研究所はテレビ研究から電波兵器(レーダー)研究をしていたようです。玉川製紙は偽造紙幣(主に中国大陸で謀略戦として使用)の製紙原料が保管されていたようです。登戸研究所の職員の住宅は41世帯が住んでいました。
今でも生田キャンパスで確認できる登戸研究所の痕跡についてですが、資料館の隣にプールがあり、道路や防火水槽、本館前のロータリー跡の植え込み、これらは当時からあったものです。
スタンプラリーでキャンパス内の史跡めぐり
講演の後に生田キャンパスの端にある「資料館」にいってみた。この建物は細菌戦のための実験棟のひとつで、昔の航空写真をみると似たような建物が沢山並んでいる。建物内にところ狭しと資料や模型の展示物が並んでいる。風船爆弾の模型や中国向けの偽札の展示が目を引いた。現在はこの資料館が開館している日に研究所に関わる史跡めぐりのスタンプラリーが開催中だ。遊びの要素を入れた催しはなかなかいいと思う。すべて回ると資料館受付にて記念品を貰えるそうなので歩いて探してみてはどうだろう。(本田一美)