私の従軍中国戦線 村瀬守保写真展

村瀬守保写真展チラシ

村瀬守保写真展チラシ

 

一枚の戦場写真が歴史の流れを変える。戦争の写真集といえば、そんな衝撃的な写真が並ぶイメージが強い。しかし、写真集「新版 私の従軍中国戦線 村瀬守保写真集<一兵士が写した戦場の記録>」(日本機関紙出版センター)に掲載される写真の多くは、水を浴びたり飯盒の飯に食らいつく笑顔の兵士や、貨物列車や装甲車に吊るされた、はためく洗濯物などの風景である。

村瀬は、戦場写真家ではない。1937年に輜重兵として召集され、中国大陸を2年半にわたって転戦。カメラ2台を持ち、中隊全員の写真を撮ることで非公式の写真班として認められ、約3000枚の戦場写真を撮影した人物である。

戦後は、中小企業の会社経営をしながら、リアリズム写真集団の会員として写真を撮り続けていた。1983年の夏、全国商工団体連合会の機関誌『月刊民商』に戦争体験記を執筆し、その時に輜重兵として従軍した当時の写真を掲載した所、注目され、山手教会の平和のための戦争展でパネル化、それが毎日新聞の記者の目に留まり、大々的に報道される。その後、1988年2月に初版の写真集が出版された。村瀬はこの年に亡くなるが、新版は2005年に発行され、今も順調に売れ行きを伸ばしているそうだ。
村瀬の写真が改めて注目されるきっかけは、2012年、村瀬の遺族が、遺品となった写真約1000枚分の保存と活用を日本中国友好協会埼玉西部支部の役員に依頼したことに始まる。遺族から写真データを寄贈された日本中国友好協会は、日本兵たちの「人間的な日常」と、この日本兵たちが犯した南京虐殺、「慰安所」、日常的な加害行為などを克明に記録した写真をとおして村瀬が伝えようとした「戦場の狂気が人間を野獣に変えてしまう」というメッセージを重視して、50枚の展示パネルを制作し、2014年から全国各地で展示会を開催している。そこには、戦争の日常と異常、高揚と陰鬱の対比が見事に写されている。

ここで村瀬の経歴、戦歴を振り返る。

村瀬は、1909年12月文京区真砂町に生まれ、私立豊山中学退学後職を転々とするが、1937年7月に召集され、兵站自動車第十七中隊(中隊長井上軍二中尉)第二小隊に配属される。15歳の時からカメラを趣味とし、召集された時はかさばらないカメラ、<ベビーパール ヘキサー4.5>を買い、胸ポケットに入れて出征した。東京目黒の輜重連隊から富士山麓への行軍演習の後、8月18日に品川駅から宇品、宇品からは貨物船で釜山へ、そこから鉄道で一路北上、盧溝橋事件に端を発し、日中戦争がはじまってから約2か月後の9月12日深夜、天津に着く。人口120万人といわれた天津の街もすっかりさびれ、めぼしい建物は殆ど崩壊し、ところどころに死体が転がっているという状態だった。

10月某日午後7時、「兵站自動車第十七中隊は、自動貨車十五車輌をもって、直ちに揚柳鎮に兵力を輸送すべし」との緊急命令が発令され、1時間後には出発する。午後11時頃、北京郊外の揚柳鎮に到着。その後、再び天津への集結命令、さらに11月12日に大連へ集結。11月19日、7000トン級の貨物船に車両を積み込んで乗船、上海に向かう。何千人の兵士が乗船しているので、高さ4尺の高さに仕切られた蚕棚のような所に畳1枚当たり2名の兵士が押し込められる。兵器、弾薬、背嚢、飯盒その他私物を押し込むと人の入る余地もないくらいだ。誰もが隣人を警戒し、誰もが泥棒になる。他の部隊では、銃口蓋を失くして自殺に追い込まれた兵士も出たそうだ。3日後、上海に到着。37年8月に日本海軍陸戦隊が上海に上陸、10月23日の総攻撃で膠着状態を突破し、150万都市とも言われ、中国随一の貿易都市上海が半ば灰燼に化した後に、村瀬らが到着したのである。上海でも外人租界は無傷で、ここで村瀬は二眼レフ一台と現像・焼き付け用品一式を買い入れる。行軍中も中隊長はじめ中隊じゅうの兵隊の写真を撮り、合間を見ては焼き付けをして渡し、兵隊たちは喜んで内地の家族に送った。こうして村瀬の写真撮影は、軍務に支障がない限り半ば公認とされ、検閲に阻まれることなく日本にいる家族に送ることができたのである。

上海から南京へ、進撃する第一線部隊を追う形で兵站部隊も進む。南京に近づくにつれて、部落を通過するたびに虐殺死体が徐々に目立ち始める。12月13日、16師団が中山門を占領し、完全に南京城内が制圧された後の二週間ばかり、輸送部隊は城外に足止めされた。場内では大虐殺が行われているという噂が、どこからともなく流れてきた。ようやく足止めが解除されたある日、荷物の受領のために揚子江岸の下関埠頭へ行くと、そこには幅10メートルのあろうかと思われる死体の山が累々と岸辺の泥に埋まっていた。工兵部隊が死体を沖へ流す作業を行っていたが、このやり方では一か月以上かかるだろうと思われた。この時の数枚の写真は、南京で大虐殺があった動かぬ証拠である。南京陥落後、中隊は揚子江の対岸に渡り、滁県場内の空き家に宿営した。住民は兵火を逃れて避難しているようであった。

翌年の2月3日、北上命令を受けて中隊は徐州作戦に参加。それから漢口作戦、山西省での八路軍討伐と転戦し、ノモンハン事件の激しい戦闘が続く1939年9月はじめ、転戦命令が届き、いよいよ年貢の納め時と覚悟を決めて、大連から列車でノモンハンへ向かう途中、四平街に停車している時に停戦協定が締結されたことを聞き、小躍りして喜びあったという。ノモンハンはソ満国境で冬ともなると零下40度以下に下がるという極寒の地である。9月でも夜になると水は凍る。エンジンの水を抜き忘れた車両が10台、エンジンにひびが入ってしまい、翌日、応急処置としてひび割れた所にセメントを詰めて出発したが水が漏れ、水筒の水を足しながら、何とか目的地までたどり着く。10月末にはノモンハンからハイラルへ行軍。ここには満州開拓移民団がおり、土地を奪われた現地農民からは恨まれていたので、自己防衛のための特別訓練所もあった。12月中旬、ノモンハンの後始末も終え、正式に内地帰還命令が発令、全員無事に帰還した。

兵站自動車第十七中隊が行く先々で、村瀬が撮影した写真の多くは、戦争の日常を写し出す。自動車部隊だけに連なって走行したり、泥沼に車輪をとられて倒れたりというトラックの写真が多い。その中で戦闘を前に緊張する兵士、貨車や列車、貨物船にすし詰めにされる兵士、笑顔で飯を喰らう兵士たちの表情が明の部分とすれば、占領下の街の人々の不安な表情、破壊された家々、死体や白骨の山は暗の部分であり、それらが混然と晒される。一方で、前述の南京事件の虐殺死体、無蓋トラックで輸送される慰安婦、軍直営の慰安所、私設の売春宿、スパイ容疑で斬られた中国人の若者の遺体などの写真の前では、襟を正さずにはおれない。

私たちむさしの平和のための戦争展実行委員会とむさしの科学と戦争研究会は、来る3月31日(金)午後5時から4月3日(月)午後7時まで、武蔵境駅南口に降りて目の前の武蔵野プレイス1階ギャラリーにおいて、「第3回 むさしの平和のための戦争展 日中戦争80年 写真が語る侵略戦争~村瀬守保写真展」(無料)を開催する。

なお、同展示会の催しとして、4月1日(土)午後2時~7時30分にはドキュメンタリー映画『陸軍登戸研究所』(上映時間3時間)の上映と、上映後に楠山忠之監督と元学徒兵で風船爆弾の製造に関わった小岩昌子さんのお話を伺う。

また、4月2日(日)午後2時~4時30分には、元何件百人斬り訴訟弁護団の穂積剛弁護士をお呼びして、同訴訟の顛末についてお話を伺う。前者は鑑賞券1000円、前売券800円、高校生以下・障がい者は500円。後者は参加資料代500円、高校生以下無料。(むさしの平和のための戦争展実行委員会)

参考
新版私の従軍中国戦線<村瀬守保写真集>一兵士が写した戦場の記録(日本機関紙出版)
http://www.jcfa-net.gr.jp/katsudou/murase-photo.html
(日中友好協会 戦後70年企画・村瀬守保写真展-一日本兵が撮った日中戦争)
http://www.kawagoehot.com/Pages/NewsFlash19.html(小江戸新聞 川越ホット 南京虐殺や毒ガスの惨劇など記録)