なぜ民主的憲法を持っていたドイツにヒトラー独裁体制が誕生したのか?

8月12、13日と月島社会教育会館で「平和をねがう中央区民の戦争展」が開かれ、12日(土)に小野賢二さんの南京事件の研究について、13日(日)には石田勇治さんのワイマールからヒトラー政権誕生を考察する講演があった。13日の石田さんの講演を報告する。(文責:編集部)


「なぜ民主的憲法を持っていたドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか? 
抜け穴は『緊急事態条項』」

石田勇治さん(東京大学大学院教授)

石田さんの講演
●「大統領緊急令」=緊急事態条項
選挙でナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)は1928年5月では2.6%だったのが32年11月に33.1%となり、ヒトラーが首相に就任してから43.9%となってはいるが過半数を超えてはいない。

ヒトラー政権発足時は国家人民党(伝統的保守派・帝政派)との連立政権で閣僚でナチ党出身は10名のうち2名のみであった。与党の国会勢力は総議席数584のうち、248議席(196+52)で少数派政権として発足した。

なぜ少数派政権が可能だったのか。それは緊急事態条項(ワイマール憲法48条の「大統領緊急令」)であった。

●ワイマール共和国の政治
第一次大戦(1914~18年)で敗れたドイツは、ドイツ帝国の崩壊により「ワイマール憲法」を擁する共和制となり、「ワイマール共和国」が誕生した。

ワイマール憲法は代議制民主主義・議院内閣制の一方で直接選挙で選ばれる共和国大統領に大きな権限を与えていた。

大統領=国家元首は首相・閣僚の任命権、国会解散権、緊急処置権(大統領緊急令)をもち、国会は首相・閣僚の信任を必要とし、大統領緊急令の廃止の要求や国民投票による大統領罷免が可能であった。

この国会と大統領の二元主義がワイマールの特徴で、首相は両者の均衡の上に国政の基本方針をさだめて議会政治を牽引することが期待されていた。

●ワイマール共和国末期
1930年代初頭、国会は政治対立が激化して多数派の合意形成能力が失われて立法府の機能が著しく低下した。この時期は首相が国会内に多数の基盤を持たず「大統領緊急令」(以下、「緊急令」)に依存して国政にあたった。こうした少数派政権は「大統領内閣」と呼ばれて、ヒトラー政権も当初はそのひとつであった。

大統領緊急令は、法律と同じものと見なされていた。したがって首相が大統領を動かして「緊急令」を公布すれば、国会を無視して国政にあたることができた。国会には「緊急令」の廃止を要求する権利があるが、それを行使すれば大統領に解散を命じられる可能性があった。

1930年7月、政府は国会で否決された法案を、国会解散後に「緊急令」として公布した。野党は反発し、国会を無視する政府の強引な政治手法に対する世論の憤りは、直後の国会選挙においてナチ党と共産党を増加させた。

国会選挙後は左右急進派の勢いが増したなか、混乱も増した。政府はこれを「緊急事態」だと捉えて「緊急令」を乱発した。国会の形骸化が進む。さらにヒンデンブルグ大統領の政治的比重が増大して、ワイマール憲法が前提とした国会と大統領の均衡が崩れて、一方的に大統領が優位となった。

大統領周辺に不透明な権力空間が生じて、国の政策が大統領周辺の官僚・専門家の手で策定されて、国会を迂回して施行されるようになり、議会が無効化していった。

●末期のワイマール共和国、ヒトラーを首相へ
1932年7月にナチ党が第1党となる(社会民主党は第2党で共産党は第3党)。国会は機能麻痺になり、「大統領内閣」も存亡の危機になった。

基盤のない政府は国会を解散して、「緊急令」を立て続けに発令する。11月の選挙ではナチ党が後退し(33.1%)、共産党が増加する(16.8%)。

財界は共産党の台頭に危機感を抱き、ヒトラーを首相に推すべく大統領に請願する。大統領はシュライヒャー(貴族出身)を首相に任命する。政府は軍部独裁を構想して、ナチ党の分断を画策するも失敗し、前首相のパーペンらがヒトラー取り込みを大統領に進言して、首相に迎える。

ヒンデンブルグ(伝統的保守派)とヒトラー(新右翼)が結びついたのは、<1)議会制民主主義を終わらせる 2)共産党の粉砕 3)再軍備の実行>であり、強いドイツの復興であった。

ヒトラーは国会を解散し、選挙となるが今回は権力を握っていた。さらに道具としても< a.「緊急令」 b.突撃隊・親衛隊を補助警察として活用 c.大衆宣伝組織>があった。
治安対策と称して選挙戦に介入して違反者(労働運動活動家・政治家)を逮捕し、自由な選挙が不可能になっていた。

ナチ党の露骨な選挙介入にも拘らず、有権者の約半数は与党への投票は避けた。ナチ党は(43.9%)単独過半数を達成できず。国家人民党と連立し52%であった。

●ヒトラーが手に入れた「授権法」=全権委任法
1933年3月23日に「授権法」=全権委任法が制定される。大統領・国会から自由に法律を制定できるというもの。37年までの時限法であったが、実際は1945年まで続いた。これは憲法と背反しうるものであった。

この授権法で多くの新法が成立しナチスのイデオロギーが続々と政策化されていった。左翼やユダヤ人を公職から排除するための法律、優生思想による断種法、無数の反ユダヤ法、新党設立禁止法などができた。

1984年8月にはドイツ国元首法が成立した。ヒンデンブルグの死を前に「総統」を新設し、ヒトラーがそれに就任する。大統領と首相の権限をあわせ持つ絶対の指導者となる。

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講演の後の質疑で多少補足説明があり、一般大衆にナチ党が支持を得た理由として、多数者の要望に沿った政策と思想だったと解説した。左翼やユダヤ人というものはドイツのなかでは少数者なので迫害は目立つものではなかった、表立って異論を唱えなければ無事だし、いっそうナチ党員になれば生きていく上でも楽だと思うようになっていった、ということであった。この話は示唆的でナチの時代に左翼やユダヤ人だけでなく、ジプシー、障がい者など、異端とされ、排除されたのは少数者であり、弱者であった。今の時代もトランプ現象にかぎらず、差別・排外を肯定するなどの風潮もあり、危機感を感じると同時に寒気を催してしまった。

南京事件の写真展示

南京事件の写真展示


ホールの案内にはチラシの表示があった

ホールの案内にはチラシの表示があった


●「平和をねがう中央区民の戦争展」
「平和」を目的とした戦争展はあちこちで開催されていて、それこそ日本全国各地で開かれていると思うが、比較してみたことはない。なるべく行ける所は出向くことにしている。それぞれ工夫があり、地域ならではの特色や傾向があるようで、おもしろい。

ここで目を惹いたのが、地元月島の自由律俳句の橋本夢道の展示である。江戸の下町情緒が残る月島を愛した俳人で、戦前のプロレタリア俳句運動にも参加していたという。会場の一画に獄中で密かに俳句を書いた石版が展示してあり、強靭な精神性を感じることができた。あまりに面白いのでこれについては稿を改めて掲載したい。
(本田一美)

月島を愛した俳人「橋本夢道」の展示

月島を愛した俳人「橋本夢道」の展示


壁面には沖縄・辺野古展示

壁面には沖縄・辺野古展示


沖縄でのオスプレイ墜落事故(2016年)の新聞記事が貼られていた

沖縄・名護市でのオスプレイ墜落事故(2016年12月)の新聞記事が貼られていた