教員の過労死を顕彰する教育塔
毎年10月30日は教育祭の日だ。今年(2021年)は31日だが、基本的に1936年に教育塔ができた10月30日に第一回教育祭が開催されて以来、毎年おこなわれている。
教育祭とは「1934年の室戸台風で未来への道が閉ざされてしまった多くの子ども・教職員を追悼し、その名を永くとどめるために建てられたのが教育塔です。それを契機に、教育に関わる活動で尊い生命を失った子ども、教職員、教育関係者の方々を心から追悼し、その名を永くとどめ、不幸な出来事が再び起こらないことを願って執り行われてきた」のだという(教育塔HPより)。
祭という名前がついているが、祝祭ではない慰霊祭である。当事者のうちには祝という認識があるのかもしれないが、平たくいえば追悼式である。
斎藤貴男さんが『「心」と「国策」の内幕』(ちくま文庫 2011年)のなかで「教育のヤスクニが祀るのは」として敎育祭などの現場を取材している。それを紹介しよう。
大阪市中央区・大阪城公園、二〇〇五年十月三十日。公園の大手前広場にそびえ立つ、「教育塔」と銘打たれた高さ三十メートルのモニュメントを中心に、ざっと千五百人もの人々が集まって、厳かな式典が営まれていた。
(中略)内閣総理大臣の代理をはじめとする来賓たちの献花に続いて、追悼の言葉が読み上げられていく。文部科学大臣。全国知事会。全国都道府県教育委員会連合会。大阪市長。日本PTA全国協議会。大部分は責任者自身にはよらいない代読で、「尊い命を職務のために捧げられた」「その崇高な精神は国民の等しく尊敬するところ」「御霊のご冥福をお祈りし」「学校教育の発展を祈念する」などといった表現が幾度となく繰り返されていった。
そもそも教育塔と教育祭は、1934年の台風被害に大阪府では木造校舎が倒壊し、生徒を守るために自らを犠牲にした教職員たちの美談が数多く生まれ、記念碑の建立と慰霊祭の計画が浮上した。当時の教育関係の職能団体である帝国教育会が主催し、募金を集めて塔が建てられ、慰霊祭は教育勅語発布記念日に執り行うと決められた。15年戦争も始まり、国民総動員体制の一翼を担い。植民地台湾で皇民化教育を推進していた1896年に起きた抗日事件(芝山巌事件)で殺害された教員6名が忠君愛国の教育者の鑑「六士先生」として喧伝された。「教育塔と教育祭は明確に、教育が戦争遂行のためにあることのシンボルであり、セレモニーであった。慰霊の作法も国家神道に拠っていたため、〝教育の靖国〟とも称された」(斎藤貴男 前掲書)
戦後になり、帝国教育会は解散し、その事業などは日教組が引き継いだ。一部には反対論もあったようだ。問題が表面化したのは「箕面忠魂碑訴訟を支援する会」が1979年にレリーフの撤去や式典の日程変更など具体的な項目についての改善を、日教組に要請した。教育塔の塔心名に刻まれた教育勅語の一部を改め、神道用語の「合祀」を「合祭」に、「祭主」を「主催者」へと言い換えるようになった。
私が教育塔を知ったのは、早逝された日隅一雄弁護士のブログだ。2008年に記されたブログは「教育塔を考える会」の質問状を転載するものだったが、なんともモヤモヤした気分になったことを憶えている。許育塔と教育祭に疑問を抱いたのは当然だが、なによりも違和感を覚えるのは主催が日教組だということだ。
2004年には「教育塔を考える会」の初代代表も合祭された。しかも教育活動ではない、カヌー事故による死亡だという。斎藤さんの前掲書では日教組の書記次長に話を聞いている。「日教組内部でも問題意識がないわけではないのですが、あの方が亡くなられた時、いかがされますか、と遺族に尋ねたところ、お父さまに『ぜひ』と言われたものですから。父親の意見を尊重しないわけにはいかないでしょう。無理やり合祭したものではないんです」(斎藤貴男 前掲書)。死人に口なしではないが、初代会長も草葉の陰で泣いているのではないか。この当時の談話では改善について匂わせているが、2019年の朝日新聞の記事では変更された様子はない。
戦後、帝国教育会は解散。教育塔の維持、管理と教育祭の開催は、日教組に引き継がれた。市民団体「教育塔を考える会」がレリーフの撤去などを求めてきたが、今も残されたままだ。(中略)いま、教員の「殉職」は、「過労死」に形を変えたのだろうか。
(現場へ!)教職員組合はいま:1「時間外100時間超、倒れた教諭」(朝日新聞デジタル 2019年8月26日)
https://www.asahi.com/articles/DA3S14153393.html
教育祭当日の様子に戻れば、K・K先生という教育現場で過労死で亡くなった方が追悼されていたが「教育改革の犠牲者以外の何者でもないように思われた。(中略)多国籍企業経営のセオリーを子どもたちにも当てはめて早期の選別が図られる。選別を司る立場にされた教師たちは、教育者というより、たまたま教育の分野を走ってるビジネスマンとしての生き方を求められている」(斎藤貴男 前掲書)その戦士たちを追悼するのが現在のあり方となっている。
戦前から戦後になり、変わったように思ってもそうではなかった。教育基本法も国家主導の「戦後版教育勅語だと言えなくもないわけでね」(斎藤貴男 前掲書)との意見があるが、その教育基本法も2006年の第一次安倍政権で「改正」された。経済成長が立ち行かない、格差社会が進み沈むつつある日本国家の危機管理が求められた。第二次安倍政権(2012年)からはさらに踏み込んで「教育勅語」について安倍内閣は、憲法や教育基本法に反しない形で、教材として使うことを認める答弁書を閣議決定した。教員のあるべき姿が「国家の求めるビジネスマン」になっても、教員たちの喪失感や矛盾そのものは無くならない。それを埋めるために昔の「教育勅語」がかたちを変えて復活しても不思議ではない。米国と日本の権益・繁栄のため再び「教え子を戦場に送る」ことにしない証をつくることが重要ではないか。
(本田一美)
PS.「教育塔を考える会」のウェブは見つからなかったが、例年集会は開いている。以下、2008年11月7日付、守口市立南小学校校長への 「教育塔を考える会」質問状を再度、転載したい(引用者による部分紹介、日隅一雄弁護士ブログでは読むことができる)。
======================↓ ココから
教育塔・教育祭は、1936年の建設・第1回教育祭以来、教え子を戦場へ駆り立てる「教育の靖国神社」としての役割を果たしてきました。戦後は、日教組が教育塔を維持管理し、教育祭を主催してきましたが、根本的な見直しを欠き、多くの問題点を抱えたままです。
私たちは、これまで日教組に対して、
1、教育塔の「教育勅語奉読」のレリーフを撤去すること。
2、教育祭を「教育勅語」発布の日(10月30日)に行うのをやめること。
3、戦前の教育塔・教育祭のあり方を反省する説明板を設置すること。
4、教育祭に小中学生を参加させることをやめること。
などを求めて行動してきました(日教組は今年から、教育祭開催日を「10月の最終日曜日」に変更しましたが、これまで「10月30日」に行ってきたことについて、何ら説明していません)。
ところが今年、第73回教育祭において私たちは、看過することのできない光景を目の当たりにすることになりました。それは、貴校6年生・民族学級クラブによって、「追悼音楽」が演奏されたことに他なりません。
教育塔は、以下のような「事蹟」により死亡した教員を「英霊」として顕彰する
「教育招魂社」(第1回教育祭・帝国教育会会長)であり、植民地における皇民化教育を推し進める役割を果たしてきました。
・台湾総督府学務部員(6名) 明治29年1月1日
(前略)芝山巌に勤務中土匪の蜂起するに遭ひ匪徒の凶刃にかかり殉職す
・朝鮮元町公立尋常高等小学校校長 大正7年12月5日
学校火を発したるを以て直ちに現場に馳せつけ御真影並に勅語謄本を奉護せんとし(中略)殉職を遂げたり(後略)
・台湾霧社公学校訓導 昭和5年10月27日
霧社事件の難に遭い遂に悲壮なる殉職を遂ぐ
・松山市清水尋常小学校長 昭和9年8月31日
満鮮視察団員として出張中匪賊の襲撃を受け殉職す(『教育塔誌』1937年帝国教育会編纂発行より)(こうのすけ注:以上、元号はママ)
このように教育塔は、「御真影」や「勅語謄本」を「奉護」したとされる教員を賛美する一方、植民地支配に抵抗した人びとを「土匪」「匪賊」(盗人)と決めつけるものでありました。(以下略)
https://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/199a8d5a7f2d62e945167c024d9f7080
教育塔HP
http://www.kyouikutou-jtu.jp/