詩を読んで人々が結びついた時代-追悼道場親信

詩と絵画の夕べ

詩と絵画の夕べ(自由芸術大学のwebより)


友人から「道場さんの集会があるから行こう」と電話があったのは秋の深まった頃だった。そこではじめて道場親信さんが亡くなったことを知った(正確には集会ではなく、不思議なギャラリーの展示なのだが…)。

友人とでかけたのは東急多摩川線鵜の木駅からほど近くの場所(ちなみに下丸子駅は隣)で狭い道路に面した所にあった。周囲は昔の商店街を思わせる建物も散見される。古い家屋を改造したそこは、ギャラリー「Hasu no hana」という名前で部屋の中では黒猫が自由に遊んでいる謎めいた場所だ。

ちいさな空間の一角にガリ版印刷の鉄筆やローラーなど道具一式と、かつて発行された下丸子文化集団の多くの詩集や雑誌などを編纂した復刻版と道場さんの遺作となった『下丸子文化集団とその時代』(みすず書房 2016年)が展示されていた。

オーナーの方に話をうかがうと、当時の活動に参加されていた遺族から復刻版を譲り受けた、という。遺族の方の話では価値があるとも思えず、あらかた資料は捨ててしまったようで、結局は復刻版のみが手元に残っている、ということらしい。また、オーナーも参加して、2016年に現代版下丸子文化集団(下丸子文化集団NEO)をつくって、当時のようにガリ版で印刷したサークル紙も発行している(下丸子文化集団NEOのサークル誌 「試誌 下丸子 コンペイトウ」)。そして、今回の展示はその出版活動がメインだったようだ。

ガリ版について私自身の話をすれば、高校生のときに「月映」という大正時代の詩画集(田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎が1914年に創刊させた雑誌)を知り、それに影響を受けた冊子を版画とガリ版で作成したことがある。80年代まで学校の印刷物はなどはガリ版だったし、いっときはまさに民衆のメディアだったのだ。そんなことを思いながら鵜の木駅を後にした。

下丸子文化運動については著作を当たってもらえばいいのだが、この地域の作家で旋盤工だった小関智弘さんから引いておこう。

「戦後の民主化運動のなかで、大田区、品川区や港区といった東京南部地域には、労働組合運動や地域の民主化・平和運動のなかから、数多くの文学、演劇、うたごえ、音楽鑑賞……といった文化サークルが、雨後の筍のごとく生まれた(略)後に作家として活躍する安部公房も、若いころこの地の『下丸子詩集』に詩を書いた。原水爆禁止運動のなかでひろく歌われるようになった「原爆を許すまじ」の作詞(浅田石二)も作曲(木下航二)も、この運動のなかで生まれた」(『働きながら書く人の文章教室』岩波新書 2004年)

このように戦後のサークル運動のひとつとして下丸子文化集団があった。

道場さんは同時代史に向き合った研究者といっていいだろう。著作として『占領と平和―“戦後”という経験』(青土社 2005年)、『抵抗の同時代史―軍事化とネオリベラリズムに抗して』(人文書院 2008年)があるが、これらは具体的な事象に真摯に向き合って発したものだと思う。観察するのではなく主体的に受け止め、活動する人間として時代への異議を語ったのだろう。これらの著作なかで戦後のたたかいの記憶と記録を思い起こす。そして彼が危惧して注意を喚起していたことはますます強まっている。

『いまや社会全域をこのような反「運動」ポピュリズムが席巻し始めていることに注意が必要である。とりわけこの現象が加速的に進行しているインターネットの匿名掲示板などでは、運動に携わる市民を「プロ市民」と予備、揶揄の対象として排外意識が煽られている』

『何か運動をしている人々を「反日分子」呼ばわりし、自らはあたかも「無色」であるかのように欺瞞して、他者の足を引っ張ることに快楽を見出すシニシストたちが、「ふつうの市民」の語の所有権を主張しているという現実がここには存在している』 (『抵抗の同時代史』道場親信 人文書院 2008年)

いっぽう道場さんが死の直前までまとめていたサークル運動とは何なのか。とりわけ下丸子文化集団の運動はなんだったのか、正直なところ文章を読んで内容は理解できても、感得するというものではなかった。まさに同時代の皮膚感覚というようなものが捉えられなかった。そんな時に高円寺にある「素人の乱12号店」の自由芸術大学という講座で下丸子文化運動を取り上げるというので参加してきた。講師は池上善彦(元『現代思想』編集長)さんと松本麻里(文工研neo)さん。

松本さんは「何故50年代か? カウンターカルチャーの流れが60年とつながっていない、違和感がある」として映画「キューポラのある街」を紹介する。

池上さんは「当時は詩を創ることが日常的なコミュニケーションだったのではないか。詩を創ることを他の人にもすすめた。ストライキがあったりすると詩人のグループが詩を書いた」と語り、50年代にあった様々な闘争を紹介した。

「松川事件で犯人にさせられた人たちが詩を書けといわれて全員が詩人となった。福島大学に資料として残っている。昔は詩人のサークルがあちこちにできていた。労働者との協同作業というあり方が新鮮だったのでは」と政治と文化のつながりを示唆する。

また浦山桐郎「キューポラのある街」と大島渚「日本の夜と霧」を比較して、当時は圧倒的に「キューポラ…」が支持されていたが、現在では大島のほうが評価されている、と時代の落差を論じた。

映画については視点・内容とも違うので単純に比較はできないが私見では、大衆的かどうかの点ではないだろうか。たぶん「日本の夜と霧」はかなり観念的で(否定している訳ではない)、革命運動のあり方をめぐった話ゆえ、テーマを議論するのに向いているが、労働者のあり方をめぐる話ではない。

50年代については朝鮮戦争があり、アメリカとのサンフランシスコ講話条約、ビキニ水爆事件、レッド・パージ、メーデー事件、共産党の極左冒険主義から六全協、砂川闘争など内外で大きな激動があり、民主的運動の高揚と挫折があった。東京南部の下丸子の地域は朝鮮戦争当時はアメリカの戦車を修理していた工場があったという。またその関連の工場も多かったろう、とりわけ東京南部の地域には直接、間接に関わらず内外の情勢が反映したのだろう。

また、労働運動についても大規模ストからの敗北と分裂などで路線転換などもあった。様々な困難や矛盾のなかで、労働者たちが自由になるものとして「詩」を掴み取ったのだろう。下丸子文化集団のなかでも下丸子の地域外の労働者も参加している。これについて松本さんは「労働運動が停滞し始めたので、文化サークルによって再生、活性化しようとしたのでは…」とも話す。

人々は労働運動によって自分たちの領域や「公共圏」を確保したが、それをさらに拡張するものとして詩の「ことば」をもって、「われわれ」を見いだす欲求があったのだ。そしてその詩によって「つながり」を創出した。いささか整理されすぎるかもしれないが、大きな運動や目的に解消され得ない身近なもとして何かがある。それはネットの時代でも似たような事は散見されるのではないだろうか(歪んだものも多いが…)。

当時の社会的激動のなかでわれわれの「場所」を限定することなく、言葉で結びついて、さまざまな情報や激情を詩にこめて、冊子という目に見えるかたちの「地域」をつくった。まさにそれが下丸子文化集団などのサークル文化運動だったのだと思う。少し身近に感じることができた気がする。(本田一美)

当時の詩集の表紙を写しつつ講義した

当時の詩集の表紙を写して講義した

下丸子文化集団NEO
http://www.hasunohana.net/shimomarukobunkasyudan

自由芸術大学
http://www.freeart-univ.org/events/event/circle-movement/