統制下における反戦:表現・言論活動―広島を中心に

4月16日(土)午後1時30分より図書館九条の会の学習会が「マスコミへの圧力と表現の自由」と題して中央区新川にある日本図書館協会研修室で開かれた。主催は図書館九条の会。集会は武蔵大学社会学部教授で元NHKで映像ドキュメンタリー制作をしてきた永田浩三さんが、仕事として関わった主題や事例などの映像を写し紹介しながらのトークであった。

永田浩三さん

自己紹介をします。1954年大阪生まれで東北大学からNHKに入りました。主にドキュメンタリー、教養・情報番組を制作し衛星放送ハイビジョンの編集長などをやりました。2009年からは武蔵大学社会学部メディア社会学科の教授をしています。そこではドキュメンタリーの歴史・制作を学生たちに教えています。

最近ではウクライナのことが話題になります。パウル・ツェランという詩人が今のウクライナ辺りの出身です。ユダヤ系ドイツ人でナチスに両親が殺害され、その母と故郷を詠った「白楊(はこやなぎ)」という詩を紹介します(ウクライナの風景が描写される…)。

(ウクライナの状況の映像を写して…ウクライナにある正教会と原爆が投下された長崎の浦上天主堂の教会の崩れた映像が交互に映される)いろいろ心配なことがあります。複雑な地域でこの戦争は2014年から続いていたともいえます。原発が戦場となりました。被団協が怒りの声明を発表しました。

スベトラーナ・アクシェービッチという作家がいます。ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞(2015年)を受けました。『戦争は女の顔をしていない』などが有名です。ロシアでは海外のニュースが放送出来ない状況で、ノーベル平和賞受賞者(2021年)で、ロシアの独立系紙「ノーバヤ・ガゼータ」はドミトリー・ムラトフ編集長によると海外で活動するということです。〝戦争で最初に犠牲になるのは「真実」〟(古代ギリシャ三大悲劇詩人のひとりアイスキュロスの名言)この言葉を噛みしめたいと思います。

ヒロシマと母にまつわる話です。母は東京大空襲を生き延びてふるさとの広島に帰郷しました。実家は醤油醸造の蔵があり、祖父はオタフクソースの開発に関わりました。母はそこでも原爆の被害に遭い、京橋川に下りて助かりました。リトアニア出身の社会派で反核の画家でもあるベン・シャーンの版画集「マルテの手記」の絵には広島のひしゃげた建物が参照されています。これは原爆被害を受けた呉服問屋の小田政商店の骨組みの写真を見ていたのだと思います。

広島の原爆投下の後は米国占領軍のプレスコードがあり、原爆についての報道はされませんでした。そんななか作家たちは抗いました。太田洋子は8月30日にはじめて原爆についてのエッセイを書き(「海底のような光 原子爆弾の空襲に遭って」)、小説『屍の町』を11月に完成させました。このあと原民喜や歌人の正田篠枝の表現が続きます。

辻詩「なぜに」1950年前期 (広報「ふくやま」HPより)

辻詩「なぜに」1950年前期
(広報「ふくやま」HPより)https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/koho-detail14/koho-202201/244071.html

峠三吉と四國五郎の「辻詩(つじし)」があります。GHQによる言論統制下での表現活動です。峠三吉(1917~53年)は日本最大争議(ドッジライン)の日鋼広島争議を支援し、詩を書きます。画家の四國五郎(1924~2014)はシベリア抑留から帰国し、弟の原爆死を知ります。二人が出会ってから『原爆詩集』の制作や詩の創作、そして朝鮮戦争が始まってからは、「辻詩」という新聞紙大の紙に峠が詩を書き四國が絵を描いた、一種のポスターでした。当時は統制下で監視を逃れつつ、辻詩を壁に貼るということを繰り返して1950年~53年まで約150枚が作られたそうです。

またはじめて平和擁護広島大会が1949年に広島女学院講堂で開かれ、初めて「原子爆弾の廃棄」が決議されました。会場の半数は朝鮮人女性だったという。当時は朝鮮人のたたかいが進むにつれて当局の弾圧も本格化しました。

はじめての平和擁護広島大会『ひろしま民報』第19号

はじめての平和擁護広島大会を伝える当時の新聞(『ひろしま民報』第19号 1949年10月10日)https://hiroshima-ibun.com/より


広島・長崎に続き、ビキニ環礁・第五福竜丸の事件(1954年3月1日)が起きます。そこから放射能汚染を調査しようということで科学者たちが集まり、俊鶻丸(しゅんこつまる)という調査船が出帆し、そこに乗船していた科学者の岡野眞治さんがレクチャーをして科学ジャーナリストたちを育てました。

原爆については小林岩吉さんが子どもを探すために「原爆の絵」を描きました。そこから1975年、NHKの広島放送局で市民が描いた原爆の絵を募集しました。被爆体験を引き継いでいくということです。

市民の手で原爆の絵を
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/no-more-hibakusha/library/bangumi/ja/14/

初期の被爆者運動にもう一度光を当て、基町高校の生徒たちが被爆者たちに聞き取りをして絵にしていくとりくみがあります。1年くらい時間をかかることもあります。情報が簡単に手が入る時代ですが、交流して体感してゆくことの豊かさ、大きさということを確認したいと思います。

核兵器禁止条約は60カ国で批准されました。絶対悪としての核兵器が認識されたと思いますが。日本政府は後ろ向きです。また安倍元首相が核シェアリングを主張していることに暗澹たる想いがします。

最後に私が関わっている「表現の不自由展」についてお話します。2012年に写真家・安世鴻(アン・セホン)さんのニコンサロンの写真展が日本軍「慰安婦」を扱ったせいで中止となりました。それをリベンジするためギャラリー古藤でやったのが始まりで(2015年)、それで津田大介さんからあいちトリエンナーレ(2019年)に招待されたのです。名古屋の河村市長は《平和の少女像》の展示中止と撤去を要請し「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」と発言し、そして脅迫によって中止させられました。その後は日本国内の各地で開催し、東京では2022年4月2日~5日に「くにたち市民芸術小ホール」で開催・展示しました。4日間で1600人が来場し、街宣車は30台来ました(笑)。

(「表現の不自由展」開催 「時事通信」HP 2022年4月2日)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2022040200205&g=soc

米国バイデン政権の臨海前核実験の報道がありました。それに対して広島の市民は抗議を示しました。
(朝日新聞HP 2022年4月15日)
https://www.asahi.com/articles/ASQ4G7520Q4GTOLB009.html

声をあげることをあきらめない、ということ。言論・表現はカナリアだと思います。一本のマッチをする、それが闇を灯すのです。

(文責:編集部)

『原爆詩集』 著:峠三吉 / 装幀挿画:四国五郎


『原爆詩集』 著:峠三吉 / 装幀挿画:四国五郎  1951年 オリジナル私家版 新日本文学会広島支部/われらの詩の会