関東大震災朝鮮人・中国人虐殺から99年―映画『隠された爪跡』を見て
2022年8月10日、衆議院第一議員会館地下1階の大会議室で開催された「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺記録映画上映会」に参加した。
上映会では『隠された爪跡』(1983年)と『80年前に何があったのか』(2003年)の2本のドキュメンタリー作品が上映された。『隠された爪跡』を監督した呉充功(オチュンゴン)さん、中国人受難者の聞き取り調査をしている林伯耀さんのお話もあった。
映画『隠された爪跡』は東京・荒川の河川敷をパワーショベルで掘る場面から始まる。
1982年9月2日、3日、7日の3日間、荒川の河川敷に虐殺され埋められた朝鮮人の遺骨の発掘調査が行われた。現場は墨田区八広6丁目、京成押上線荒川駅(現・八広駅)近く、木根川橋の墨田区側(対岸は葛飾区)付近。目の前は荒川が滔々と流れている。京成押上線の鉄橋の下流側に旧四ツ木橋が架けられていたが、いまはない。
一見、自然の川のように見える荒川だが、1911年から1930年まで29年もの年月をかけて完成させた人工の川で荒川放水路とも呼ばれている。明治まで付近一帯や東京の下町は何度も大洪水に見舞われたがその治水対策として、地域の住宅や寺社を立ち退かせて開削して建造されたのがこの荒川放水路だ。1920年頃から開削の工事に朝鮮人が働いていた。また付近の町工場にも多くの朝鮮人が働いていた。
地元の小学校教諭、絹田幸恵さんは1975年頃から社会科の教材作りのために放水路工事の話を墨田区、葛飾区、江戸川区のお年寄りから聞き書きをしていた。聞き書きを続けるうちに関東大震災当時の話も出た。1980年ごろには関東大震災を体験したお年寄りがまだ存命で、朝鮮人虐殺の現場を目撃した人も少なくなかったのだ。
その中に「旧四ツ木橋下手の河原で朝鮮人を10人ぐらいずつしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺した。橋の下手に3カ所くらい大きな穴を掘って埋めた。今でも骨が出るのでは」という証言があった。付近で朝鮮人がたくさん殺されたという話も出てきた。絹田先生やこの話を知った地域の人たちの事件の真相究明、虐殺された朝鮮人たちの追悼ができないかという思いから「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(会の名称はその後「追悼する会」に改称)が発足。河川敷を管理する建設省(当時)の許可はなかなか得られなかったが、粘り強い交渉の末、「1日一ヶ所掘って埋め戻す」「試掘個所は3か所」という条件付きながら発掘調査にこぎつけた。映画の冒頭のシーンはこの発掘調査の様子だ。
発掘調査の結果、遺骨は発見されなかった。埋められた場所が許可されなかった堤防寄りの別の場所だったなどが考えられた。また当時の新聞報道でも伝えられたように警察が何度か遺骨を掘り出して運び去ったということもあったようだ。真相は今も明らかでない。
映画ではこの発掘調査を見にきた曺仁承(チョインスン)さんが登場する。
曺さんは1902年生まれ、1923年1月に釜山から船に乗って大阪に来た。各地を転々として8月末から押上のゴム工場で働きはじめた矢先に大震災にあう。
震災直後、押上付近が火の海になり危険を感じたため荒川土手に逃げ、火が迫るなか旧四ツ木橋を渡って対岸の葛飾側に避難した。同胞14名と一緒にいるところ消防団がやってきて縄で数珠つなぎに縛られ「逃げたら殺す」と言われ消防団は去っていった。翌朝5時再び消防団がやってきて新四ツ木橋を渡って寺島警察署まで連行された。橋を渡る途中、朝鮮人が殺されるのを目の当たりにし曺さん自身も足にトビ口を打ち込まれ重傷を負う。
この一帯では数多くの朝鮮人が虐殺された。曺さんは警察署に15日間収容された。警察署には瀕死の重傷をおった朝鮮人も多く、また逃げ出して警察署を取り巻く群衆や巡査に殺された人もいたという。曺さんはその後、千葉県習志野の収容所に移送され10月に釈放され九死に一生を得た。
映画撮影当時、曺さんは80歳。大井競馬場近くでホルモン焼き店を営んでいた。店の様子や「いまだに関東大震災の時のことを思い出して夜中、恐怖で叫び声をあげる」という妻の朴粉順(パクプンスン)さんの証言もあり、恐怖の日々がリアルに伝わってくる。曺さんは映画公開から1年後の1984年、84歳で亡くなった。
映画では少年時代や若い頃に朝鮮人虐殺を目撃した日本人の証言も出てくる。大震災や虐殺を直接体験した人がいなくなってしなった現在、生き証人たちの姿をフィルムに残した貴重な映画と改めて思った。
『隠された爪跡』は当時23歳だったオチュンゴン監督が横浜の映画専門学校(現・日本映画大学)の学生だった頃、その卒業制作として製作された。同級生が撮影に協力してくれたこと、機材なども不足していた中で専門学校の教員が機材を提供するなど製作にまつわるエピソードも語られた。生き証人の映像を後世に伝えるという意義に多くの人が共感してこの映画は完成したのだ。オチュンゴン監督は1986年に2作目の『払い下げられた朝鮮人〜関東大震災習志野収容所』を製作。震災後、政府は「保護・収容」の名目で、各地で警察と軍隊を動員して朝鮮人を強制的に集めた。陸軍習志野収容所には約3200人の朝鮮人が集められた。しかし、軍は収容された朝鮮人を数名ずつ密かに連れ出し、近隣の村人に「払い下げ」受け取った村人は流言を信じて虐殺に加担してしまった。映画は当時を知る人の証言などで構成されているという。
監督はその後、家業を継ぐために映画からは遠ざかっていたが、歴史学者の姜徳相(カンドクサン)教授の激励もあり、現在は新作『2013ジェノサイド93年の沈黙』(仮題)を制作中。2013年に韓国国内で、関東大震災時に虐殺された人の遺族の調査が開始されたこともあり、日韓に埋もれている犠牲者の家族史を、各地を訪ねて掘り起こす作業を続行しているとの報告もあった。
続いては林伯耀さんのお話し。虐殺されたのは朝鮮人だけでなかった。東京や横浜で700人を超える中国人労働者・行商人が軍や警察、自警団によって虐殺された。犠牲者の多くが不明の朝鮮人と違って、中国政府の調査団が犠牲者名簿を作成している。
植民地となり政府も朝鮮総督府も調査に対して弾圧を加え虐殺の真相を徹底的に隠蔽した朝鮮と違って、中国政府が交渉を通じて一定の調査が行われたのだ。国際社会の非難を恐れた日本政府は20万円(当時)の賠償も決定したが、その後の侵略の拡大によって補償は履行されていない。
林さんは関東大震災当時、横浜市鶴見区に住み呉服の行商をしていた陳善慶さんのお話をされた。
陳さんは自警団に誰何(すいか)され「中国人」と答えると行商で背負っていた反物を強奪され腕を縛られ、鉄棒やとび口、鎖で肩や腹、足をめった打ちにされ四肢を折られた。死体置き場の山で息も絶え絶えになっていたところを陳さんの日本人妻が救い出したのだ。その後、一家は陳さんの故郷、中国福建省に向かう。陳さんは瀕死の重傷から一命を取りとめたものの重度の障害者となり働くことはできなかった。家や土地を売り息子、娘も口減らしに外に出した。1947年陳さんは自死。日本人妻も翌年、病気と飢えによる衰弱で亡くなった。2018年、陳さんの墓を訪ねた林さんは子孫や親戚から日本人妻の遺骨を故郷に帰し埋葬できれば、という切実な願いを聞いた。林さんは陳さんの遺族の願いを実現しようと、手書きのチラシを作って鶴見を尋ね歩いた経験をお話しされた。
また東京都江東区大島地区には、震災当時、多くの中国人労働者が住んでいた。大島地区は豊富な水路を利用した物流の中心地であり工場進出も盛んで低賃金で働く朝鮮人や出稼ぎ中国人が集まっていたのだ。中国人労働者の福祉向上と労働環境改善を目的として僑日共済会が結成され、その本拠地が大島地区だった。僑日共済会のリーダー的存在だった王希天も震災後に行方不明となり後に殺害されていたことが判明する。
大島地区では大規模な虐殺があり、「支那人及朝鮮人三百名乃至四百名、三回に亘り銃殺又は撲殺セラレタリ」と記された警視庁外事課長直話と記された極秘の公文書も発見されている。映画『80年前に何があったのか』では大島地区での虐殺や当時の中国人の多くが浙江省温州から来たことから現地の街なども紹介されていた。
まもなく99年目の9月1日を迎え、来年は100年目になる。この上映会は2023年の9月1日に大追悼会を行う準備会として開催された。東京都立横網町公園では毎年、朝鮮人犠牲者追悼式が行われているが、東京都の小池百合子知事は2017年以後それまで都知事として毎年行われていた追悼文送付を中止している。今年も送付しないだろう。横網町公園や荒川河川敷をはじめ横浜、八千代市などでは地域の市民などによって毎年、追悼会が行われている。朝鮮人・中国人へのジェノサイド(集団虐殺)という加害の歴史とどう向き合うかが私たちに問われている。(丸田潔)