平頂山虐殺90年! 事件の究明と謝罪・弔いを

「再生の大地」合唱団によるミニコンサートがあった

「再生の大地」合唱団によるミニコンサートがあった

平頂山事件が起きた1932年9月16日から、今年はちょうど90周年にあたる。その日付に近い9月10日(日)に『平頂山事件90周年記念集会』が中央区月島社会教育会館4階ホールで開催された。主催は「『撫順』から未来を語る実行委員会」。

今年は日中共同声明から50周年にもあたる節目の年だが、米国主導の中国包囲網に日本も加担し、緊張が高まっている。二度と戦争の惨禍を繰り返さないためにも今一度事件を学び、心に刻んでおこう。

平頂山事件とは、1932年9月16日に、中国東北部の撫順という炭鉱街の近郊にある平頂山という集落で、住民約3千名を、日本の軍隊と警察官、憲兵隊らが重機関銃で虐殺し、遺体を埋めてしまったという事件である。

集会では主催者あいさつの後に、この事件の裁判を担当した泉澤章弁護士が「裁判が紡いた日中市民の活動」と題して報告を行った。最後に井上久士氏が記念講演を行った。

泉澤章弁護士「裁判が紡いた日中市民の活動」

平頂山事件から奇跡的に生き残った被害者たち(中国では「幸存者」という)3名が原告として、日本政府に対して損害賠償請求訴訟を1996年に起こした。これが「平頂山事件訴訟」で、初めは中国の人たちは我々弁護団を信用していなかった、なぜやるのか相互理解がなかなか進まなかった。

私達は国家による「戦前国家無答責」「国家による請求権放棄」などの壁がありながらも、事実や被害のあり方をあきらにして示すことで、理解してもらい人の倫理観に訴えた。そして日本全国で集会を開いて社会に知らせていった。

残念ながら2002年に棄却、最高裁で棄却・敗訴が確定した(2006年)。しかし被害事実の認定はされた。まとめると公的に事件が認定された。日本と中国の民衆の交流ができた。事実を究明して謝罪の証を示して、教訓を伝えることが今後の私達の使命だと思う。

「平頂山事件とは何だったのか」
井上久士氏(駿河台大学名誉教授)

資料などを写しつつ講演をおこなった

井上久士さんは資料などを写しつつ講演をおこなった


9月16日早朝、平頂山へ行く前に撮られた記念写真。撫順守備隊

平頂山へ行く前に撮られた記念写真。9月16日早朝で、写っているのは撫順守備隊40数名と推定される(資料より)

平頂山事件は1932年9月16日に起きました。このあたりは日露戦争後に租借地として借りたもので、日本が支配していました。平頂山は撫順(市)にあり、瀋陽の近くで長春から南の鉄道の権益をとり、満鉄は炭鉱や製鉄所なども経営していました。

撫順は「匪賊」が出没していました。「匪賊」とは抗日義勇軍で大刀会・紅槍会などの在地武装勢力や張学良指揮下の東北軍の一部などです。

1935年9月15日夜に約2000名が撫順を襲撃します。「匪賊」は大刀会のようです。大刀会の主力が平頂山を通っていったことで協力者がいると判断したのではないか。

これに対して満鉄社員の守備隊である「軍警守備隊」と日本軍が応戦しました。9月16日の早朝には川上隊長が率いる日本軍が炭鉱事務所で住民殺害の会議をしています。日本軍は約100名で平頂山に到着し、地域を閉鎖すると同時に住民を家から追い出し、窪地に集めます。

昼過ぎから機関銃で虐殺を始めます。しかし全員は死亡せずに、逃げた人もいると思われます。

日本軍も察知して銃剣を指してどどめを指すと同時に集落にも放火して、焼却します。翌日も遺体に重油をかけて焼却し、さらに数日後には崖を爆破して土をかけて隠します。

元満鉄撫順炭鉱の手記によれば「何れも非戦闘員である。或いは強制されて案内をした者もあったろうし極少数の内通者が居たかも知れないがこの村、この崖下の惨状を見てとんでもない大虐殺をしたものだと唖然としてこの惨劇現場を去った」(『敗戦地獄撫順』山下貞)とある。

いったいどれくらいの人が虐殺されたのか。名前がわかっているのが2300名である。中秋節で村を訪れた親類縁者もいたろうし、村外の人も巻き込まれただろう。

エドワード・ハンターの現地取材記事が12月2日の米紙に掲載された

エドワード・ハンターの現地取材記事が12月2日の米紙に掲載された(資料より)

100名くらいの人が生き残ったと思われます。事件から2ヶ月後に中国の新聞で報道されます。米国通信社の特派員であるエドワード・ハンターは11月30日に現場を突撃取材しました。それには2700人と書かれています。12月2日に米国新聞に掲載された記事には「私は虐殺の行われた一角の丘は斜面に立っている…数百もの死体は、数センチ埋められただけでは、腐臭を漂わせないわけにはいかない」とあります。

11月24日に中国代表が国際連盟で平頂山事件をとりあげて日本を非難しました。日本は事実を否定して、結局は国際連盟を脱退します。しかし、東京裁判では平頂山事件の事実は認定されました。

1948年の国民政府の中国での戦犯裁判では守備隊を除く炭鉱関係者など7名の死刑が執行されました。日本軍の責任者は裁かれませんでした。

(文責編集部)

■参考
撫順平頂山惨案紀念館
https://zhuanlan.zhihu.com/p/359017509
撫順平頂山大虐殺記念館は遼寧省撫順市新府区南昌路17号にあり、国家重要文化財保護部に認定。記念館は、序文館と4つの展示館に分かれており、「平頂山大虐殺跡地」には、虐殺現場から出土した 800人以上の遺骨が展示されている。

撫順平頂山惨案紀念館

撫順平頂山惨案紀念館

紀念館内部に虐殺された氏名が並んでいる

紀念館内部に虐殺された氏名が並んでいる

集会チラシ

集会チラシ