反靖国・反天皇制。そして運動のなかで再会した…

反靖国闘争、反天皇制運動を伴走されてきた高橋寿臣氏(享年70)が2019年に亡くなられたが、この度友人たちの手で遺稿集が出版された。遺稿集には靖国問題、天皇制の動向、全共闘運動、10.8羽田闘争、非常勤講師組合のたたかいの文章が編まれている。友人であった土方美雄氏に紹介をお願いした。(編集部)
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高橋寿臣遺稿集『全共闘から反天皇制運動へ』(自費出版、一〇〇〇円)
                

 高橋寿臣は、古い友人である。知り合った経緯は、「反天ジャーナル」というホームページで連載中の、拙稿「反靖国~その過去・現在・未来~」の中で、次のように、書いた。

 当時、私は、故あって、某党派の活動からはリタイヤしたものの、その党派と完全に決別したわけでもなく、つまり、週に一度のペースで、その党派の担当者が、機関紙等を届けに、家にやってきて、あれこれ、話をして帰るという日常を、非積極的にであれ、半ば、受け入れていた。ある日、その担当者から、これからある人の家へ行って、情勢について自由に話し合う、少人数グループのミーティングに参加しませんか?といわれて、行くことにした。そのある人というのは、板橋区大山のボロ(失礼ッ)アパートに住んでいて、行くことは伝えてあるというが、行くと、ドアは開いていたものの、部屋には誰も、いなかった。しかたなく、一緒に行った複数の人たちと、しばらく待っていると、その部屋の主が、湯上がりであることが明白な、真っ赤な顔をして、首にタオルを巻いて、戻ってきて、「悪い、悪い」といいつつ、いきなり、冷蔵庫から牛乳のパックを出して、ゴクゴク、飲んだ。その、まるで健康優良児のような男が、その後、一緒に、靖国問題研究会をつくることになる、高橋寿臣である。(中略)こうして、高橋寿臣とのつき合いが、始まることになった。その後、高橋らと靖国問題研究会というグループを始めたのは、一九八一年のことだ。

 その少人数のミーティングなるものは、正直、あまり長くは続かず、私はその党派から、結局のところ、完全離脱することになった。ただ、高橋らとのつき合いは、党派からの離脱後も、続いていた。特に、一九八一年に、靖国問題研究会を結成してからは、反靖国闘争を共に闘い、たまには、旅行に行く、仲間となった(北海道とか、チベットへも、行った)。私が、一九八五年、『靖国神社 国家神道は甦るか!』(社会評論社)という、初めての本を出した時、その実現に向けて、強く働きかけ、文字通り、海のものとも、山のものともわからぬ、無名の著者の本を出すことに対し、ためらう向きには、それなら、その一部を、靖問研で買い取ってもいいとまでいって、上梓にまでこぎ着けてくれたのも、高橋である。

 一九八四年に、反天皇制運動連絡会が結成されると、高橋は靖問研を代表して、その会議に参加するようになり、すぐに、その事務局メンバーになった。私も、かなり遅れて、反天連に参加したが、長い年月を経て、ある時、突然、ぶちキレて、ちゃぶ台をひっくり返して、反天連をやめ、高橋とのつき合いも、その後、しばらく、途絶えた。若いころ(今も???)の私は、瞬間湯沸かし器と、いわれていたのである。

 再び、彼と会うようになったのは、沖縄の辺野古新基地建設に反対する、運動の中でである。高橋は、持ち前の正義感と、思い立ったら、すぐに行動するという性格を、全面的に発揮し、単身、沖縄に行って、抗議行動に参加した。今日は、抗議船に乗った、海上保安庁に追われて、大浦湾に飛び込んで、泳いだ・・といった、楽しげな武勇伝が、メールで、頻繁に、届くようになった。

 東京で、親しい友人Sを介して、再会し、飯を食ったり、沖縄現地でも、別グループながら、闘争後の懇親会で会って、深夜まで、大騒ぎした。陽気で、ガハハと、大声で笑い、常に宴席の中心にいる、そういう男だった。

 高橋は、水泳が得意で、毎日、プールで泳ぎ、その後、サウナに入るのが、日課だった。二〇一九年四月一日、その日も、日課のプールへ行き、サウナで鋭気を養っている最中、突然、倒れた。享年七〇歳だった。

 彼は、すぐれた、大衆活動家だったが、原稿は書いても、生涯、単著は残さなかった。

 以下は、遺稿集を紹介するために書いた、短文である。

 『高橋寿臣遺稿集 全共闘から反天皇制運動へ』が、ようやく、完成しました。

 高橋が、急逝したのは、二〇一九年四月一日のことですから、その死から、実に、三年と数カ月も、たってしまいました。

 高橋寿臣は、靖国問題研究会の発足時からのメンバーで、その後、反天皇制運動連絡会の結成にも参加しました。長く、高校の非常勤講師を続けながら、反靖国・反天皇制運動等々に、積極的に関わり続けてきました。
 その彼が書いた原稿を、靖国・天皇制問題を中心に、可能な限り集めて、収録したB5判一九〇頁の冊子です。編集は、高橋の友人であった、天野恵一さん。頒価一〇〇〇円。

 私は、反天連の一員ではなく、その編集には、まったく、タッチしませんでしたが、高橋は、終世の友人であり、靖国問題研究会創設以来のメンバーとして、共に闘ってきた、大切な仲間の一人ですので、その販売には協力しています。是非、お読みいただければと、思います。

遺稿集の書影


 

 追記:この本の天野恵一さんの「刊行にあたって」の文中に出てくる、菅孝行さんへの批判に関しては、私は必ずしも、同調していません。

 また、高橋の文章「小川嘉吉さんが酒を飲む日」に関しては、私は基本的に三里塚反対同盟北原派支持の立場で、小川派支持の高橋とは、意見を異にしていました。ただ、高橋と共に、小川派結成直後の小川嘉吉さんにはお会いし、そのお話を聞く場には、共に、おりました。

 菅孝行さんは、劇作家・評論家で、天野恵一さんらと共に、反天連の創設メンバーでもあったが、その後、意見の相違もあって、退会された。その菅さんの現在の言辞について、天野さんは、遺稿集の「刊行にあたって」の中で、批判的に、言及されている。私は菅さんが、「こちらにもどってくる可能性はない」人だとは思わないので、この「刊行にあたって」の文章には、とても、残念である。

 また、当時の小川派の人たちには、何とか、北原派にとどまって、闘って欲しいと、私は考えていた。これは、高橋と私の、意見の相違である。

 ということで、いささか長い、遺稿集の紹介となってしまいました。ゴメンナサイ。

 遺稿集は、自費出版なので、書店等で、購入できません。私のメルアドに、お名前と送付先をお知らせ下されば、代金後払いで、お送りいたします。送料はサービスします。

(土方美雄 hijikata@kt.rim.or.jp)