「南京大虐殺85年」から日中関係を考える

2022年は日中国交正常化(1972年)から50年であった。残念ながら日中間でそれを慶賀する動きはなかった。歴史認識として日本政府は日本が行なった対中国戦争を侵略戦争であったことを明確にせず、日本の戦争を美化する靖国神社を容認し、支持し続けている。また、現在の日本の安全保障政策が事実上は中国を「仮想敵国」として据えている。さらに「敵基地攻撃能力」「南西諸島の軍事基地化」「防衛費増大」により、戦争準備が加速している。

そんななか年末12月12日から18日の一週間、九段下の九段生涯学習館2階にある九段ギャラリーで「日中国交正常化50周年と日本の中国侵略を考える」写真展が開かれた。主催は「NPO法人 重慶大爆撃を語り継ぐ会」と「NPO法人 731部隊・細菌戦資料センター」、「中国文化財返還運動を進める会」の3団体。

今回の写真展は南京大虐殺、731部隊細菌戦、毒ガス戦、重慶大爆撃、文化財略奪という5つの視点で戦争被害と侵略戦争の実態を学び直そうというもので、会場では連日のイベントとして重慶大爆撃の映画「苦干」の上映とミニ講演がおこなわれた。ミニ講演の内容は以下の通り。

・12月12 日(月) 田中宏(一橋大学名誉教授)「南京大虐殺85年から日中関係を考える」

・12月13日(火) 纐纈厚(山口大学名誉教授)「中国侵略から日本の近現代史を考える」

・12月14日(水) 東海林次男(東京都歴史教育者協議会会長)「靖國神社の“戦利獅子石”の由来など」

・12月15日(木) 大内要三(軍事ジャーナリスト)「対中国日米共同作戦体制とCBR戦」

・12月16日(金) 奈須重雄(731部隊問題研究者)「中支那防疫給水部軍医の蚤の研究」

・12月17日(土) 石島紀之(フェリス女学院大学名誉教授)「映画『苦干』に見る重慶大爆撃の実相」

・12月18日(日) 五十嵐彰(慶應義塾大学講師)「文化財返還運動の思想的核心と提起された諸問題」

ここでは初日に開催された田中宏さんの講演を紹介する。

講演する田中宏さん

講演する田中宏さん


〈「南京大虐殺85年」から日中関係を考える〉
田中宏さん(一橋大学名誉教授)

私は南京大虐殺のあった年に生まれた。1937年は盧溝橋事件もあり、いつも自分の年齢で何周年と確認できる。東京に生まれたが縁故疎開で岡山へ、学校へ行くと校門の脇に「敵の大将が死んだ。日本は戦争に勝つぞ」とある。しかし岡山で空襲があり、変だなと思っていた。

敗戦後はスミ塗の教科書で勉強した。ローマ字を勉強し、ローマ字で名前の書いた、それがうれしかった。英語が一世を風靡したが、鳩山首相が「ソ連、中国と国交樹立の用意あり…」として、そそのかされて東京外国語大学の中国科に入学する。

大学2年のときに「日本にも雪男」(1958年)と報道されて、中国人強制連行の劉連仁さんが発見された。それについては当時は強制連行の事実を知らなかった。

アジア文化会館に入り(1962年)、1964年の「北京シンポ」で坂田昌一(名大教授)の鞄持ちで参加した。郭沫若が開会式で「歴史的に欧米外の人々が集まったのは初めて」とのあいさつがあった。南京では「一人で歩かないで」と釘をさされて、現実の南京と出会った。

1972年の「日中共同声明」は重要だ。日本はポツダム宣言を受けれたが、ポツダム宣言はその前のカイロ宣言(1943年)を受け入れている。カイロ宣言は満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言で「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものたらしむる…」とあり、重要視されている。日本は50年戦争の解消を求められたのだが、日本のなかにそういう認識はない。

2013年にカイロ宣言70年で中国のメディアからコメントを求められた。中国や朝鮮からすれば重要なのだ。

中曽根首相と靖国参拝と「南京紀念館」の開館

戦後政治の総決算を唱える中曽根首相(1918~2019)は1985年8月15日に靖国神社の公式参拝に踏み切るが、同日に「南京紀念館」が開館する。これについては日本で報道がなされていない(なお、ハルピン市の「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」も同日開館)。

中曽根首相は参拝の前に有識者たちを集めて「靖国懇」をつくり、問題ないと理解していた。メンバーだった梅原猛(1925~2019)は「日中関係が崩れることが心配だったのである。戦争の被害は加害者よりはるかに被害者の方が鮮烈な記憶を持つものである。ぜひ外務省に問い合わせてくれてと主張したが、次の会議で、外務省に問い合わせると、日韓、日中関係が悪化することはない、という答えだった。…その語中曽根首相に会う機会があり、『私が予測したようになりましたね。委員を辞職しても反対すべきだったと思いますよ』というと、中曽根さんは笑って『いくら君が辞職しても、私はやったよ。そうじゃないと自民党が持たない』と言われた」(「思うままに―日本外交への憂慮」中日新聞 1992.9.21.夕刊)と書いている。

1972年に名古屋の愛知県立大学へ、南京・名古屋は友好都市として提携した。南京事件の責任者である松井石根が名古屋出身なので、背景にあるのではないか。そのとき市民の側でもなにかできないかと「ノーモア南京の会」が発足した。

その後、河村たかし名古屋市長(2009~)は衆議院時代に「南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」(2006年)を提出し、2009年には市議会で「誤解されて伝わっている」と発言した。2012年に南京市訪問団が表敬訪問すると「一般人への虐殺行為はなかったと聞いている」と発言し、南京市政府は名古屋市との交流を一時停止すると発表した。

日本の中国侵略は日清戦争を除き宣戦布告なき戦争であり、戦時国際法の裏をかいて進めた戦争だった。「宣戦を布告したとなれば、外国から軍需物資の輸入が甚だしく不自由になる。…外国から輸入が思うようにいかなるなると、…国防力に大穴があいてしまう。だから戦線布告はまっぴらごめんだという…」(北博昭『日中開戰』1994年 中公新書)

また、朝鮮総督でもあった小磯国昭(総理大臣)は『満洲国指導要綱』を送り、中国軍に対して援助を与えたり、与えたと想像されると、その報復として住民を虐殺する慣行を拓いた。

(文責編集部)

レイプされた女性の惨状を伝える南京事件のパネル

レイプされた女性の惨状を伝える南京事件のパネル


重慶大爆撃を紹介するパネル

重慶大爆撃を紹介するパネル


重慶爆撃後の市街地

重慶爆撃後の市街地


山形有朋記念館にある中国の狛犬

山形有朋記念館にある中国の狛犬