映画『ペーパーシティ』東京大空襲の痕跡を探して
オーストラリア出身の映画監督エイドリアン・フランシスが東京大空襲を題材に製作したドキュメンタリー映画『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』(2021年製作/80分/オーストラリア)を渋谷の「シアター・イメージフォーラム」で観た。
東京大空襲は1945年3月10日に米軍の爆撃機が東京の下町を中心に攻撃し、10万人が命を落とすという甚大な被害をもたらした。広島・長崎に勝るとも劣らない厄災でありながら、その実相や事実は伝えられ残され共有されているとは言い難い。
なぜなのか? 監督を努めたエイドリアン・フランシスさんはそう疑問に思って、こう語る「一晩で住民が10万人も亡くなったことを初めて知って、ものすごく驚きました。だけど、周りの友だちや知り合いに話しても、詳しく知っている人が本当に少ないと気づきました。広島の原爆ドームのような施設も残っていないことや、これだけ大きな被害があっても、今、この街、東京という街の人々のアイデンティティーにあまり残っていないことがすごく不思議でした。東京に痕跡があまりないということに対して、まず最初に『なぜか?』と思い、それを知りたかった。これがこの映画を作るきっかけです」(NHK首都圏ナビ)
https://www.nhk.or.jp/shutoken/wr/20220311b.html
映画は東京の下町で東京大空襲の犠牲者を慰霊する慰霊碑の建立や空襲被害者への補償を求めて国に対して働きかけをする「東京空襲犠牲者遺族会」の遺族たちの運動、また、みずから犠牲者の調査し、記録し慰霊碑を建てて後世に残そうとする人々のとりくみに密着し、淡々と映し出す。
映画には三人の人物が登場する。彼らの日常と活動を通じて東京大空襲の実態とその後の東京の現実をあきらかにしていく。
清岡美知子さん(当時21歳)は浅草寺のそばで生まれ育ち、空襲当日に清岡家は隅田川の言問橋の下へと逃れ、数日後に姉と父の遺体を発見した。
築山実さん(当時16歳)は大空襲で兄弟3人を亡くした。今は江東区森下で町会で建てた墓誌に名前を刻んだり、追悼の活動をしている。
星野弘さん(当時16歳)は押上に近いところで生まれ育ち、空襲を受けた次の日の朝は水路が死体で埋まっているのを目にした。憲兵隊は彼と同級生にその遺体を水の中から引きずりあげる作用を命じたという。
彼らの活動は自らが体験した出来事を伝えたい、地域・周囲の人々や身内が亡くなったという残酷な歴史をなんとか残したいという想いは痛いほど伝わってくる。今の日本社会では東京大空襲の被害が顧みられていないという現実に対して無念だし、まったくもって歯痒い感覚もある。そういえばよく通る錦糸町駅そばの錦糸公園(東京都墨田区)は、早乙女勝元さんによれば一万5千体の遺体が仮埋葬されていたという。(「東京が燃えた日:戦争と中学生」 岩波ジュニア新書 1979年) さほど大きな公園ではないが、そのことを伝える説明板や慰霊碑もない。
記録映画としてオーソドックスなスタイルで、映像は2015年から2016年にかけて撮られたものだ。東京の見慣れた下町である浅草、押上、森下、そして墨田区横網の東京都慰霊堂が映し出される。東京都慰霊堂は関東大震災と東京大空襲の遺骨が納められた慰霊の施設だが、自然災害の被災と戦争による民間爆撃の被災を一緒にしているところは違和感がある。映画の最後に清岡さんと星野さんが亡くなられたことが表示される。
結局のところエイドリアン監督が知りたかった、東京に大空襲の痕跡が残っていない理由はあきらかにされないのだ。それは先の戦争を直視できない日本の戦後体制の政治と民の問題となってくる。それは長崎に広島のような「原爆ドーム」がないことともつながっている。長崎には浦上天主堂の被爆遺構があったのだが1958年に取り壊された。それには思惑あったのだ…。これ以上は展開しないが、監督は映画の最後に顔出しなどをして、むしろ観客に問いかければよかったのではないか。なぜ、東京大空襲の痕跡がないのですか…、と。
(本田一美)
■参考
映画「ペーパーシティ 東京大空襲の記憶」
https://papercityfilm.com/jp/?lang=ja
その4 仮埋葬地を歩く 東京・錦糸町(2) 遺体収容の体験が空襲を語り継ぐエネルギーに(毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20190814/org/00m/070/006000c