勝ち組になれ!ネオリベ批判としての「ファスト教養」を読む
近年よく聞く言葉に「コスパ」「タイパ」がある。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンスの略なのだが、端的に性能、効率のことを指しているが、今日の消費・生活スタイルやビジネスのなかでとりわけ重視されるパワーワードだ。
効率重視となった世界のなかで、一瞬たりとも無駄が許されないような状況に息苦しさを感じている人々は少なくない。それを指摘する複数の本が発売されていた。『ファスト教養 10分で答えが欲しい人たち 』(レジー 集英社新書 2022年)、『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(稲田豊史 光文社新書 2022年) がそれだ。
これらの本のタイトルは、ファストフードから派生したものだろう。ファストファッション、などの言葉もあるが、いずれも短時間でお手軽に供給・消費されるものだ。「ファスト教養」についてはそれを教養に当てはめた造語だが、いかにも相反するようなものが同居していて居心地は悪い。
確かに教養を銘打った本が毎年たくさん出版されている。「ファスト教養」と名付けた著者は、そういう情況を分析して<ファストフードのように簡単に摂取でき、「ビジネスの役に立つことこそ大事」という画一的な判断に支えられた情報。それが、現代のビジネスパーソンを駆り立てるものの正体である。>という。
なぜそうなるのか、著者によれば「ビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう…。」という強迫観念のような欲求からきているという。
ほんらいの教養とは基本的知識や常識のたぐいだと理解していたが、どうやら、その定義はあいまいで、ただひとつの定義は実は存在しない、という。だからこそ(ビジネスに役立つという)シンプルな目的意識を持つファスト教養的な価値観が力を持ってしまう所以であると著者は語る。
では、その「教養」はどのような意味だったのだろうか。この本では複数の意見を引いて「人生や精神を豊かにする知識」「才能・品性・習慣などを養う、磨く、洗練する」などが挙げられる。いわば自己陶冶のためなのだろう。「古き良き教養」としているが、それが情勢によってファスト教養に凌駕されているということだろう。
お金を稼ぐ、そのためのツールとして最適なのが教養である。というのが昨今の風潮なのだが、それには「うまく立ち回る」ことを是とする時代の空気だとしている。たとえば「ワンチャン」「上級国民」「親ガチャ」「マネタイズ」など、時代の意識を表すキーワードが排出されているが、時代の空気とは何か? 「世の中、努力よりも運・ツキだと思う」という意識が2020年に最高値を示したと書かれている。(文中の博報堂生活総研により意識調査による)その努力しても報われない時代には、コツコツやるよりも素早くスキルを身につけることが大事なのだろう。
地道に何かに取り組むスタンスは「コスパ」が悪い。だからこそ最小限の努力で最大限の成果を上げる方法を考えたい。だからこそビジュアルな情報としてYou Tubeがもてはやされるわけだ。動画では様々な問題の「ゆっくり解説」「You Tube大学」がひしめいている。
著者はもともと経済用語だった「自己責任」という言葉が、一般的な言葉としてひろまったのが2004年で、それはイラクでの日本人人質事件によるもので今の小池都知事(当時は環境大臣)が起点となったという。また総理経験者の小泉純一郎と安倍晋三も近い趣旨の発言をしていたという(p84)。
小泉政権での「聖域なき構造改革」という規制緩和に新自由主義的政策が脚光を浴びたのがその前後だとすると、まさに新自由主義に沿った社会のあり方が教養の概念にも影響を与えているだろう。
時代の流れを振り返ると、その当時に旧社会を変えるという勢いでホリエモンが登場し「稼ぐが勝ち」として今に至っている。それに相対はしていないが橋下徹(と維新の会)の価値観とも共有するもので、大衆からの支持を受けている理由も理解できる。
ファスト教養はビジネスやお金を稼ぐことを優先し、それに無関係な物事を無駄なものと位置づける。それは今の社会がまさに市場社会の弱肉強食の世界であり、競争を勝ち抜き、他者を出し抜くことが要請されているからだ。
新自由主義は「ネオリベラリズム」または「市場原理主義」とも呼ばれる。イデオロギー的には、個人の自立や能力主義、能力開発が叫ばれ、IT化や富の集中、社会の流動化、雇用の低下により、二極化(格差社会)と生活の不安定(プレカリテ)が進み、それらの思想は、社会問題化を個人化し、自己責任と突き放し、社会を脱政治化させていくものとなった。(『ネオリベラリズムの精神分析』樫村愛子 光文社新書 2007年)
上記の本で樫村は新自由主義における予測可能性は、偶然性を排除することであり、質より量を重視するとしてマクドナルド化と呼んでいる、それは形式的合理性として成立し創造性を排除するものとされている。
人間は他者との触れ合いを通じて成長し、芸術などの文化を含む象徴的な領域で形式的合理性を超えた人間存在のあり方を記述するという。そこに人間の創造性と可能性をみている。
ファスト教養の著者はそこまでは書いていないが、効率的な情報処理ではない、異端の発想が全体の思考を更新したりする可能性を指摘している。いわば効率性が持て囃されるなかで敢えてノイズを取り込み、あらかじめ決まっている結論や正解とは別の新しい刺激や活力を受け取る、という偶然の効用を主張している。効率を追い求めて結果不効率になったり、不具合が発生することもあるだろう。学ぶことはよる悦びを知ることが大切だろう。なにより大事なのは好きなことにのめり込み、愉しむことではないだろうか。
(本田一美)