「福田村事件」から100年目の追悼式
1923年の関東大震災。そこから5日後となる千葉県福田村(現野田市)で香川県から薬売りに来た15人の行商人たちが、福田村と田中村の自警団に襲われて9人が虐殺された。この事件は「福田村事件」とよばれたが、今年は100年ということで著作の出版や映画公開が重なった。
地域でも注目が集まり、9月6日には野田市で犠牲者を追悼する式典が開かれた。場所は事件現場に近い千葉県野田市三ツ堀の円福寺大利根霊園で地域住民と香川からの被害者遺族、地域の自治体職員、関係者などが集まった。主催は「福田村事件追悼碑保存会」。さすがに報道関係や取材陣が多い。
20年前(2003年9月6日)に建立した慰霊碑前で保存会代表の市川正廣さんのあいさつがあり、市川さんは、この事件の背景には短絡的な理由ではない、いわゆる「複合差別」があり、だからこそ差別意識の解消と人権啓発にとりくまねばならない、と語り、安易な朝鮮人誤認といった言説を批判した。
その後黙祷に移り、参加者はそれぞれ花を手向けて焼香し式を終えた。そして場所を変えて野田市南コミュニティセンター集会室で説明会が開催された。
さて、円福寺はもともとは香取神社のすぐ隣にあり今も施設が残っている。香取神社は事件の現場でもあった。周囲には林が残る香取神社を散策してみた。
神社の入口に鳥居があって、その前に灯籠がふたつ並んでいる。これは当時のまま残されているという。ここからすぐに利根川の渡し場があり、川を渡れば茨城県である。今は一部が野田市のゴルフコースになっているが、すぐ脇に緑の雑草に覆われてはいるが川っぷちに抜ける道がある。
香川県からの行商人一行はどうしてここへ行きついだのだろうか。ジャーナリストの藤田正さんが書かれた『複合差別による「福田村事件」の真相』(『部落解放9』2023・843号 解放出版社)から引いておく。
「行商の一行は半年間ほど故郷を離れていた。彼らはこの年の三月に香川を出て、大阪や京都などを経て、関東は群馬の前橋へと移動し、事件の一カ月ほど前に千葉県北端に位置する野田町(現・野田市)に到着した。野田町での長逗留(ながとうりゅう)は、地域が醤油産業や河川運輸で栄える場所だったからである。」(同34ページ)
行商は香川県の部落産業だという。それは部落が農業には適さない場所にあり、勤めも差別して採用してくれないため、商業や行商に活路を見出していった。野田町に来た行商人たちもそのような人々だったろう。彼らは重い大八車を引いて福田村の渡船場へ向かい、利根川を渡り茨城県に立ち寄ってから帰路に向かう予定だった。
「昼前の一一時頃だろうか、一行はようやく福田村三ツ堀の渡し近くに到着した。
支配人とその家族(妻、長男、長女)ら九人は近くの香取神社の手間にあった水茶屋に休息の場を求め、残りの六人は鳥居の下の部分、亀腹(かめばら)・台石(だいいし)あたりに腰かけたという。」(同37ページ)
支配人が船頭と渡し船の交渉で揉めてしまい、一行の言葉遣いに不審を抱いた先頭は寺にあった梵鐘を鳴らした。集まってきたのは福田村と田中村の自警団と群衆だった。
いきり立った彼らは駐在や村長の制止にも聞く耳を持たず、興奮状態のままで手にしていた竹槍や日本刀を使い凶行に及んだ。殺された九人たちは利根川に流されて御遺体は行方不明となってしまった。神社にいた六人は駆けつけた野田署の部長の指示で結束を解かれて、命だけは助かった。
「一九二三年一一月二八、被疑者八名(福田村、田中村、各四名)の大一審公判始まる。
一九二四年八月二九日、大審院判決。騒擾(そうじょう)殺人罪として七名(福田村四名、田中村三名)の刑が確定。
一九二七年二月七日、「大正天皇大喪」に伴う恩赦に(大審院判決から二年六カ月後)。
…そして、時を経て一九七九年事件の遺族からの連絡により「福田村事件」の検証が始まった。
二○○三年九月六日、追悼慰霊碑(墓碑)建立。」(同38ページ)
なお、今年6月20日に野田市の鈴木有市長は野田市議会のなかで「被害にあった方々に謹んで哀悼の誠をささげたい」と述べ、市として初めて公式に弔意を表明した。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230624/k10014108081000.html
また、9月6日の柏市の定例会見で太田和美市長「亡くなられた人々に対しては、本当に謹んで哀悼の意を捧げたいと思う」として「史実として後世に遺していくことが市の責務ではないかと思う」とも述べた。
https://nordot.app/1072113506877113164
これまでは「福田村事件」のことは地域では口に出すことは憚られてきたのだが、ようやく虐殺の事件を認めて公的に弔意が示された。歴史として語ることが可能になったのだ。事件そのものは当時の時代情勢や背後にあった朝鮮人差別や部落差別、社会の混乱、国家の思惑など複合的な要因が重なっていたと言われている。今後はその「複合差別」を丁寧に解明して、今日にも通じる予断や偏見の実態、意識のあり様を検証していくことが求められるだろう。
昨今の出来事で、フェイクニュースを鵜呑みにした人がヘイトクライムを起こした京都のウトロ放火事件や、バス亭で休んでいたホームレスの女性を排除しようとして殺してしまった事件など、残念ながら今の日本が進歩してきたとは言い難い。
それらの事件は日本社会が差別を温存(または再生産)してきたことの結果であり、社会の反映なのだが、差別意識は時に権力(政府)にも利用されてきた。その差別の根本のひとつには、日本が敗戦となってもなお、天皇制を遺したこと、その構造が大きいのではないか。それを未だに特別な存在としていることがあるのだと思う。
(本田一美)
■参考
「福田村事件」を伝え続ける人たち(NHKちばWEB特集 2023年08月31日)
https://www.nhk.or.jp/shutoken/chiba/article/015/51/