元少年兵は証言する―マルタの標本、731部隊の実態
2024年4月21日にTBSニュースの報道特集で731部隊についての報道があった。戦時中に少年兵として従軍していた方を取材したものだ。長野県宮田村に住む清水英男さんという方だ。現在93歳というが足腰もしっかりしていて、記憶も鮮明だ。
清水さんが731部隊に入隊したのは終戦の4ヶ月半前の1945年3月30日。見習い技術員だというが、仕事のことは知らされていなかった。工作の好きな生徒だったから推薦されたのではないかという。
「通訳の方から、お前どこだ、と言われて、宮田だと言ったら、何、俺と一緒じゃねえかと 」宮田村の付近から召集された人が多くいたという。
731部隊は満州のハルビン郊外に本部があった。清水さんはここに配属された。少年兵たちはぞれぞれ分かれて別々の仕事をさせられた。清水さんはネズミの肛門に付着した細菌を確認するなど、細菌に関する仕事が割り当てられたという。731部隊は中国人などの捕虜を木の丸田になぞらえてマルタと呼び人体実験に使った。
「菌があるかどうか、プラチナの耳かきのようなもので、おしりから液をとって、シャーレに寒天を溶かした培養液があるから、それを入れて培養器のなかにいれる」
清水さんは実験に使うネズミを捕獲する道具も作っていたという。 また、清水さんは731部隊の標本室のホルマリン容器の標本を目撃している。上官からマルタ(捕虜)を解剖したものと伝えられる。
「目も開けていられないくらい強烈だった。ホルマリン漬けで心臓だとか胃とか、盲腸だとか。みんな別々に入っていた」「解剖したものを標本にした」「ガラス瓶入りの女の人のお腹にいる子どもとか、頭をノコギリで切ったものとか」
あるとき清水さんはふかしパンを上官からもらって食べたら、42度を越える熱がでた。しかし、注射を打って手当が施されたのは1週間後だった。それまでは脈拍と体温を測っていくだけ。その1週間でデータを取られたのだ、実験台にされたと振り返る。
「少年隊員は1期生から4期生まで、体のいいマルタにするつもりではなかったかと感じています」
帰国後は一切語らぬよう厳しい箝口令がひかれた。「隊員とは交流してはいけない。部隊のやったことは言ってはいけない」「家内にも、子どもにも言わなかった」
清水さんが話はじめたのは80歳になってから。事実を子どもたちに伝えなければならないとの想いで、講演の依頼を受けるようになった。
清水さんのことが報道されると、ネット上では清水さんを「嘘」「デタラメ」と中傷する書き込みがでてきた。しかし、清水さんの名前は731部隊の名簿に記されている。
清水さんは他の731部隊の隊員とも連絡をとっている。軽井沢の須永鬼久太さん(96)を訪れた。
須永さんは志願して部隊に入隊した。当時は軍国主義一色だから、ある年になれば兵隊に引っ張られる「同じ行くなら、1日も早く行って、少しでもえらくなったほうがいいという気持ちはありましたね」 と須永さんは語る。
731部隊は正式には「関東軍防疫給水部」という。疫病対策と飲料水確保が主である。須永さんは文字どおり「防疫給水部」だと思っていて、細菌の「さ」の字もなかったという。須永さんが配属されたのは 「焼成班」だ。ペスト菌などに感染させたノミを入れる陶器製爆弾容器を作る仕事だという。
「800度ぐらいで素焼をするんです。それから瀬戸物に上薬を塗って、また1200度ぐらいにして、かたちは普通の円筒みたいなものですけど、これが細菌爆弾だなと、初めてその時わかった」
ハルビンからおおよそ150キロ離れた安達という場所がある。731部隊の実験に使われて、実験場の跡地を示す看板が立っている。須永さんも訪れたことがある。
「安達の演習場ではマルタを何メートルおきか、あちこち散らばせて、爆弾を落として何時間後に発病したとか、熱がでたとか、何時間後に死んだとか、そういう研究したのではないか」
中国の浙江省義鳥市など付近の村で多くの住民が亡くなった。2002年に731部隊の細菌兵器による被害を受けた中国人の遺族らが、日本政府に賠償と謝罪を求めて裁判に訴えた。最高裁まで争われ棄却されたが、事実認定については司法がはじめて認めた。
だが当時の小泉内閣は「関東軍防疫給水部等が細菌戦を行っていたことは示す資料は、現時点まで確認されていない。」と表明した。
裁判で原告団代表だった王選さんは、次世代に細菌戦の事実を伝える活動をしている。浙江省に「侵華日軍細菌戦史実陳列館」を開設した。
王選さんは「日本にとってはマイナスの遺産です。中国にとっては歴史を正確に記録し、被害者の尊厳を守るのが目的です」と語る。
当時の体験者の証言を聞くことができた。王基木さん(96)によると「私は当時16歳、母はわずか35歳…。死者は次から次と爆発的に広がって、それから村は焼かれました。毎日20人ぐらいが死んでいきました」「たくさんの死体が出たので棺桶が足りなくて、そのまま土に埋められた人もいました」
義鳥市崇山村では日本軍のペスト菌により多くの人が亡くなった。
1945年8月15日。終戦になり731部隊は撤退する際に証拠を隠滅するため書類を償却し、施設を爆破した。清水さんは終戦の3日前に焼かれたマルタの骨を拾うよう命じられた。
「12日の朝、骨を拾いにいけと、麻袋に入れて。終わったら爆弾を運べと、4人でロープをかけて担いで配った。終わったら退避しろと、ボイラー室の方まで退避した」その後は「爆破したのを見た」
「14日の朝、隊舎にいたら、呼び出されて拳銃と青酸化合物を渡されて…。結局、私は当時14歳だから、まったく子どもだから、標本室を見ているし、捕まればそれをばらされると、捕まったら自決しろと…」
「今で言ったら中学3年生だもんね」「今の若い人たちはこういった戦争の残虐さをきちんと習得してもらってやってもらわないと、これからあの日本はどうなるかなと思っておりますね」「今度、原爆なんかを使えるようになれば地球も終わりだ」
(文責編集部)