パラオ・沖縄・東京 戦中・戦後を生き抜いた

沖縄で生まれ、家族でパラオに移住、そして戦後は沖縄へ帰還した女性の生涯をまとめた冊子が出版された。『渡久地芳子さんオーラルヒストリー「私の生きたパラオ・沖縄(大宜味/コザ)・東京」』(渡久地芳子さんのお話を聴く会:発行 2025年)がそれで、パラオでの生活や米軍の攻撃を逃れてジャングルに隠れたり、コザ市への移住などが語られている。この話を聞き取り、まとめられたうちの1人である。毛利さんに寄稿いただいた。

一人ひとりが「戦後80年」の語り部に!
渡久地芳子オーラルヒストリー「私の生きたパラオ・沖縄・東京」に寄せて-

 毛利 孝雄(沖縄大学地域研究所特別研究員)

■「艦砲ぬ喰(く)ぇー残(ぬく)さー」

 戦後 80年目の「沖縄慰霊の日」を、ミサイルが飛び交うなかで迎えることになるとは想像もしていなかった。2度の世界大戦の中から国際社会が築いてきた国連や国際法の手続きを無視し、「戦争か無条件降伏(これを平和と呼ぶらしい)」を迫る。「善・悪」の判断はアメリカが行い、世界はそれに従えというのだ。

「戦死」-小田実さんは「難死」、澤地久枝さんは「常ならざる死」と表現する。それは、戦禍から生還した人たちの心も蝕み続ける。6月 23日「平和の礎」での全戦没者追悼式では、小6城間 一歩輝(い ぶ き)さんが平和の詩・「おばあちゃんの歌」を朗読した。「うんじゅんわんにん艦砲ぬ喰ぇー残さー(あなたも私も艦砲射撃の食べ残し)」と涙ながら歌う祖母に思いを寄せた。

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、私にとっても沖縄戦と沖縄戦後史を考えるための大切な曲。比嘉 恒敏(こ う び ん)さんが家族と自身の戦争・戦後体験を曲にした。4人の娘さんで結成した「でいご娘」が歌って戦後のヒット曲となるが、直後、恒敏さん夫妻は飲酒運転の米兵の起こした自動車事故に巻き込まれ亡くなった。

 2012年 10月、オスプレイ配備に反対して普天間基地ゲートでは連日の抗議行動が行われていた。私も参加していたある日、三線を手に激励にみえた「でいご娘」の長女・島袋艶子さんが、この曲を歌ってくれた。抗議行動参加者のほとんどが、目頭を押さえながら聞き入っていた。初めて聞く私は、この日の帰路、急ぎ国際通りの高良レコード店に向かいCDを求めた。恒敏さんのふるさと読谷村には、歌碑が建立されている。
 


4人姉妹「デイゴ娘」が「父の遺作を残したい」とレコーディングした曲は、本土復帰から3年後の沖縄でヒットした。(朝日新聞デジタル 2019年8月2日より)


4人姉妹「でいご娘」が「父の遺作を残したい」とレコーディングした曲は、本土復帰から3年後の沖縄でヒットした。(朝日新聞デジタル 2019年8月2日 より)


「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑。2013年に作詞作曲した比嘉恒敏さんの出身地、本村楚辺のユウバンタ内に建立された。(読谷村地域ガイドマップより)

「艦砲ぬ喰ぇー残さー」の歌碑。作詞作曲した比嘉恒敏さんの出身地、本村楚辺のユウバンタ内に2013年建立された。(読谷村地域ガイドマップより)

■ 沖縄戦PTSD

 沖縄戦から 80 年、県民生活の足下には、処理に今後 70 年かかるといわれる不発弾と戦没者遺骨が眠る。そして、沖縄戦 PTSD は今も戦争体験者を苦しめる。沖縄戦 PTSD について、まとまって報告されたのは 2013年の春だったと記憶する。蟻塚亮二さん、當山冨士子さんら研究チームの地を這う努力が明らかにした。南風原文化センターで行われた講演を聴いた時の衝撃は、今も忘れられない。

 渡嘉敷島で「集団自決」を体験した小嶺正雄さんが証言を始めるきっかけは、集団自決をなかったことにする教科書検定(2007 年)への怒りからだった。「ウソをついているというのか!」。以後、乞われれば証言をいとわないが、何日か前からは寝汗をかき眠れない日が続き、証言の後はぐったりして立ち上がる気力もなくなる、と話していた。

 座間味島出身の宮里洋子さんから、「私、集団自決の生き残りなの」と聞かされたのは、知り合ってからずいぶんと日を経てからのことだった。親しい友人とも泊まりがけの旅行には行ったことがない、という話が印象に残る。戦場の悪夢にうなされ、叫んでは飛び起きることがたびたびあるため、と話していた。

 後述のオーラルヒストリーをまとめた渡久地芳子さんも、「パラオのジャングルで逃げ隠れした戦場の日々が夢に出てきて、飛び起きることがある」と話していた。

■「あの人は帰ってこなかった」
 沖縄戦PTSDに関連して思い起こす本がある。20歳の時、岩手県岩泉町の冬季分校で代用教員をしていたとき(1969.12~70.3)に読んだ、菊池敬一・大牟羅良編『あの人は帰ってこなかった』(1964年岩波新書)。岩手県の一僻村に、戦没農民兵士の妻たちの戦中・戦後を追った記録集。戦争体験とは何かを考える上で、私の原点になる一冊。以下、編集に携わった菊池さんが大牟羅さんに宛てた手紙から-。

「大牟羅さん。私たちがこの仕事をはじめてから、足かけ4年になりましたね。私は初めからこの仕事の重大なことを感じていましたし、日を追うて幾度も幾度も未亡人たちに足を運んでいるうちに、自分の多忙を忘れて行きました。

 しかし正直なところ、私は幾度この仕事から離れようとしたかわかりません。私の見た、聞いたその事実があまりにも悲惨であったし、また、その問題が私などには手の出しようもない重大で恐ろしいことだったからです…。

 大牟羅さん。しかしついに私はこの仕事から離れ得ずここまで来てしまいました。私をここまで動かしてくれたもの、それは私たちがはじめに話し合った、この事実に蓋をすることの罪のおそろしさ、それがやはり私をここまで動かしてくれたのです。」


■「渡久地芳子さんオーラルヒストリー」と戦後世代の自覚

『あの人は帰ってこなかった』から半世紀余を経た今年、渡久地芳子さんからの聞き書き(オーラルヒストリー)を『私の生きたパラオ・沖縄(大宜味/コザ)・東京』として冊子にまとめることができた。お話をうかがいながら、沖縄社会が体験した戦中・戦後を象徴するような人生、そんな思いを強くした。この点で、沖縄について学びたいと考える、特に「本土」側の人たちにぜひ手にしてほしいと願っている(※)。

 「沖縄タイムス」が取材記事にしていただいた関係で、沖縄からもパラオに関係された方を中心に、初めて言葉を交わす30名近い方から連絡をもらった。うれしかった。

戦後80年、いずれ直接の戦争体験者すべてがその人生を全うする時を迎える。戦後80年の多くの時を伴走してきた私たちは、彼・彼女らの戦争体験と戦後体験を引き受ける覚悟を固めなければならない。沖縄戦、そしてその後の米軍統治の時代を生きた方の中には、「本土」側へと生活拠点を移された方も多くいるはず。残された時間は多くはないが、この冊子が沖縄を生きた人たちの経験を共有する交流の契機になってくれたら何よりうれしく思う。それは、私たち一人ひとりの持つ戦後体験の意味を闡明にし、豊かにもしてくれるはずだ。

----------------
(※)渡久地芳子さんオーラルヒストリー「私の生きたパラオ・沖縄(大宜味/コザ)・東京」は、
1部300円でお分けしています。問い合わせは、毛利(080-1054-0409)まで。