尹東柱の生まれた場と時を考え、朝鮮移民の暮らしを振り返る

2月19日に「公開講演会 詩人尹東柱とともに・2023」がオンラインで開催された。植民地下の朝鮮から立教大学に留学し、短いながらも学生生活を過ごした詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)は韓国で国民的詩人としてよく知られている。

「尹東柱の故郷・間島を語る」として作家・翻訳家・図書出版経営の戸田郁子氏の講演でYou Tubeで3月6日まで公開されていた。2008年2月以降、卒業生からなる「詩人尹東柱を記念する立教の会」が中心となって2020年まで公開講演会を実施してきたが、2023年にオンラインでこの事業を再開した。主催は立教大学平和・コミュニティ研究機構と詩人尹東柱を記念する立教の会。

尹東柱(1917年~1945年2月16日)は、中華民国時代の満州・間島出身で日本の立教大学、そして同志社大学に入学する。いとこの宋夢奎(ソンモンギュ)も京大に入学していた。独立運動の疑いで逮捕され、二人とも福岡刑務所で獄死する。朝鮮語で多数の詩を創作し、死後に『空と風と星と詩(朝鮮語)』などの作品が知られるようになった。

■戸田郁子氏の講演 <尹東柱の故郷・間島を語る>

満洲国の時代に関島省が存在した

清の領土地図。満洲国の時代に関島省が存在した。You Tubeより

関島とはどんなところなのか

尹東柱のふるさと関島(カンド)はどんなところでしょうか。 関島とは移住朝鮮人が住む場所で、はっきりとした土地ではないようです。関島という地名の由来は豆満江の流れの中にできた砂州のこと、あるいは開墾する土地の意味だという説もあります。とにかく向こう岸へ渡ることを「関島へ行ってくる」と表現していたそうです。渤海(698~926年)の時代は関島がすっぽり入っています。祖先の土地であるという意識でした。女真族の金王朝(1115~1234年)では関島は彼らの土地でヌルハチはその出身でした。

満洲の地図に「関島省」という地名がありました。現在では吉林省延辺朝鮮族自治州となります。日本人にとっては、加藤清正の「海汀倉(かいていそう)の戦い」(1592年)の場所であり、軍神として崇められ日本の満州支配の正当化のため、満洲国成立後に石碑がつくられました。

関島の古い地図(統監部臨時関島派出所紀要 1910年)には赤い丸で朝鮮人を記しており、これを見るとたくさんの朝鮮人が住んでいたことがわかります。

関島に移住した朝鮮家族写真

You Tubeより

尹東柱の生きた時代

清はロシアの南下への警戒から1881年に間島への封禁令を解き、他民族の満洲への流入が活発化しました。

1910年に日韓併合がおこなわれると、朝鮮から関島に渡る人々が増えました。年間一万人以上とも言われています。苦しい農民たちは種だけを握りしめていったということです。痩せた土地に火をつけて耕す火田民として入っていったのです。多くは中国人の小作人となっていきました。満州族や漢族は米づくりをあまりしていませんでした。彼らの主食は高粱だったり小麦だったんですね。朝鮮の農民たちは米づくりをしていきました。それは高く売れました。

牛市場

You Tubeより

関島日本総領事館

総領事館の地下に監獄が見える。You Tubeより

米づくりには牛が欠かせません。貴重な動物であり、大切にあつかったといいます。1909年関島協約というのが日本と清の間で結ばれます。朝鮮人は日本の市民だから関島に領事館を置くとしていました。朝鮮人を守るといいながら、実は抗日独立運動をする朝鮮人を捕えて領事館の監獄に入れていました。

朝鮮の開拓民たちは抗日朝鮮独立軍たちを応援していましたが、日本は開拓民部落をつくらせて接触しないよう監視していました。関島は匪賊などが出て危険なところということで日本軍が討伐隊を何度も出していました。

朝鮮開拓民部落。You Tubeより

朝鮮開拓民部落。

朝鮮開拓民部落。土塁をつくり匪賊や抗日独立軍を見張っていた

関島では1919年3月13日に、朝鮮での「万歳示威」の報を聞き、同様の平和デモが行われ「関島313事件」が起きました。その後は様々な武装闘争が行われるようになりました。

1920年には青山里戦闘という事件があり、抗日部隊が日本軍を破ったというもので、韓国の教科書にも登場します。同じ年に「フンチュン事件」もあり、日本が馬賊を買収して日本領事館を買収して朝鮮人反日分子の反抗だとして近隣の村々を焼き払いました。

1922年には天宝山と開山屯の間の鉄道工事がはじまり、それは朝鮮を経由して日本へと収奪するためのものであると、抗議する大きなデモがあった。また、関島一帯で共産主義者による「紅5月闘争」が行われ、各学校で同盟休校が起きました。これらは中国人にも呼びかけたものです。

間島の学校と尹東柱の学生時代

尹東柱の祖先はどこから来たでしょう。1886年、尹東柱の曽祖父尹在玉(ジェオク、1844~1906)は、咸鏡北道鐘城(チョンソン)から家族(子は四男一女)を率いて豆満江を渡り、対岸の北間島に定着。1900年に一家は明東(ミョンドン)村に引っ越した。尹東柱の祖父、尹夏鉉(ハヒョン)は明東村で洗礼を受け、長老となった。尹東柱の父の尹永錫(ヨンソク)は明東小学校を卒業し、後に明東小学校の教師になりました。

尹東柱は1917年12月、明東村で生まれた。明東村は日清戦争での日本の勝利に危機感を抱き1899年に会寧(フェリョン)、鍾城などから4人の儒学者が率いる家族たち140名余りが間島に住みつき。田畑を開墾し、書堂(寺子屋)教育を始めた。1904年新式教育機関である明東書塾を開設。1908年明東小学校開校。1909年には村に教会ができて明東村は「富村(裕福な村)」、明東学校は「教会学校」と呼ばれました。

関島の大統領と呼ばれた金躍淵(キムヤギョン)は尹東柱の外叔父でキリスト教を受け入れて明東教会の牧師となりました。

尹東柱の詩「こんな日」には「睦まじく並んだ正門の石柱のうえで 五色旗と太陽旗が踊る日 線を引いた地域の子らが喜んでいる」という一節があります。これは関島の複雑な状況を表しています。 五色旗は満洲国、太陽旗は日本を表しています。関島は朝鮮人が多い地域です。朝鮮総督府の教科書で学んでいて、教室に日の丸と五色旗が並んでいたんですね。

朝鮮人として民族の教育を受けられるのは関島しかなかったので満州のあちこちから学生が集っていたのです。

尹東柱は恩真(ウンジン)中学時代はサッカー選手、光明(クァンミョン)中学ではバスケットボールの選手で、文芸誌づくりにも熱を上げていました。

当時の朝鮮人学生たちの学業アルバム 

当時の朝鮮人学生たちの学業アルバム You Tubeより

1988年6月に龍井中学が尹東柱の墓を修繕しました。遺族たちの動向ですが、妹の恵媛(ヘウォン 1923~2011)は韓国に渡っています。弟の一柱(イルジュ 1927~1985)は韓国に渡り、兄の遺稿を探して、韓国で『空と風と星と詩』の刊行に尽力しました。末弟の光柱(クァンジュ 1933~1962)は関島に残り、詩や戯曲を書いたそうです。

You Tubeより

You Tubeより

尹東柱のお墓は東山という共同墓地にあるんですが、生家は既になくタバコ畑となっていました。私が明東村を訪ねたときには明東教会は製材所でしたが、1995年には復元されました。従兄の宋夢奎の墓も近くに建てられました。94年には元々のとは異なっていますが生家が復元されました。明東学校も復元されて歴史を知る建物となっています。

尹東柱の国籍問題ですが中国語の検索エンジン「百度」には、「尹東柱は中国朝鮮族の愛国詩人」と表記されています。日本語のウィキペディアでは2021年7月「満洲生まれの朝鮮民族、日本籍の詩人であり、主に朝鮮語で詩を書いた」とあり、8月には「中華民国時代の満洲・間島出身の朝鮮民族の詩人。……一部の資料によると、存命時は日本籍であったとされる」と何度も変わっています。

2022年8月に韓国国家報勲処が尹東柱に韓国の戸籍(正確には家族住所)を付与(住所は大韓民国独立記念館)しました。尹東柱が京都でつかまったときの判決文には本籍が朝鮮となっています(1944年3月京都地方裁判所で「本籍朝鮮咸鏡北道清津府浦項町七十六番地」とある)。尹東柱はどう思っているのでしょうか? あなたはどう思われますか。日中韓の人々で座って話合う機会があればいいと思います。

(文責編集部)

You Tubeより

戸田郁子さん(作家・出版社経営)
1985年より高麗大学校史学科にて韓国近代史を学ぶ。その後、中国黒龍江省ハルビンに語学留学し、延辺朝鮮族自治州を中心に、中国東北地方の朝鮮族の移住と定着の歴史を取材している。韓国で「図書出版土香(トヒャン)」を立ち上げ、日韓中をつなぐ文化を中心とした本作りに携わっている。主な著書に『中国朝鮮族を生きる 旧満洲の記憶』(岩波書店)、『悩ましくて愛しいハングル』『ハングルの愉快な迷宮』(講談社+α文庫)、『ふだん着のソウル案内』(晶文社)、翻訳書に『李さんちの物語』(黄美那・講談社)、『弓』(李賢世・晶文社)など。
https://www.konest.com/contents/korean_life_detail.html?id=5040


図書出版土香(トヒャン)
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