「むさしの市民平和月間」始まる―講演「民衆と共に歩いた戦後」山邉悠喜子さん

武蔵野市には、航空機エンジン生産の軍需工場である中島飛行機武蔵製作所があったことから、戦時中にたびたび米軍による攻撃を受けた。市では戦争の記憶を風化させることなく、平和の大切さを伝えていくために、2011年に11月24日を「武蔵野市平和の日」と制定した。今年も市民の企画を中心とした平和の催しがとりくまれ、さまざまなイベントが開催される。

その一環で10月29日(日)に八路軍に参加した山邉悠喜子さんの話を聞く会があり参加した。

山邉悠喜子さん

饒舌に語る山邉悠喜子


山邉悠喜子さんは1928年に生まれ、満州・本渓市で敗戦を迎えた。「中国民衆と共に歩んだ戦後」というタイトルの講演は自分の生い立ちと本渓の思い出、そして敗戦後には八路軍へ参加して、父親からの手紙で帰国したことなどを語った。

「(満州では)教室に向かって先生の話を聞いた記憶がない。毎日毎日、畑で芋や大根をつくったり、企業や工場には男たちがいないので、お手伝い。さらに軍事教練で薙刀や木剣で相手を殴る授業…。これが毎日の生活だった」

そう語る山邊さんに強い印象を残したものは当時住んでいた満州・本渓市の炭鉱爆発事故だったという。

「42年の4月21日、今でも記憶に残っています…。本渓市の街が煙でいっぱいになった。生き残りの人に聞いてみると多くの炭鉱夫がぺしゃんこになり、吹き飛ばされた。この事故で1500人くらいの人が亡くなった」

日本の敗戦で環境が一変。在満州の邦人たちは生活が立ち行かなくなる。

「敗戦後、生活が変わった。暖房がなくなった水がでなくなった。豪華な住まいが一夜にしてひどい環境になった。配給もない。水をもらいに外にいっていた。そんな時に回覧板に傷病兵の看護士を募集していた」

「家族は反対したけど興味があって、ここにいても何もならないので…。最初は3ヶ月ということで、民主連軍に参加してしまった。たくさんの日本人が集まってきた。一般の兵士から、事務員、満鉄の人など…」

大倉財閥がこの地域に炭鉱をつくり、それを巡って国民党と共産党の間で諍いがあったが、遠因として1891年の日清戦争の頃から日本の満州侵攻が始まっており、そこから抵抗運動や抗日ゲリラの活動があった。

「もともと1931年頃から東北抗日義勇軍というさまざまな組織・部隊があり、それを共産党が東北抗日民主連軍として糾合した。それまでは規律がない無秩序だったのが、組織化した。ちょっと興味があって参加した」

「看護婦の仕事をしました。でも、女学校時代に少し習った程度。当時の民主連軍は国民党の軍隊の飛行機が来ると隠れて、木の下で麻雀をしたりして待機していた」

部隊には中国人以外の民族が参加していた。朝鮮人、モンゴル人、ロシア人、日本人、誰も差別はしなかったという。

「当時はまだよく言葉が話せない時に、同僚(中国の)兵士が鬼子(クィズ)と言ったりしていたのを聞いたりしていたが、上官がその言葉を言わないように諭したり、陰で悪口は言わない、自分の意見を言う、ということを規則にしていました」

傷病兵の看護婦として各地の転戦に帯同し、桂林にまで至ったという。

「北京で解放の準備をしていて、国民党が残していった倉庫にペニシリンなどの薬品があって、これで治療ができると喜んで、嬉し泣きになった」

1952年に父親から「生きてるか、待ってるよ」の手紙が届く、53年に帰国、舞鶴に着いて家のあった国立市に帰ってきた。

日本の敗戦から国共内戦、新中国成立とまさに激動の時代で、その渦中に十代の時に飛び込まれた、ということも驚嘆してしまう。御本人は「期間は三ヶ月だから…短いし、軽い気持ちで参加した」と語るが、若さゆえと生来の物怖じしないところがあるのだろう。

ともかくとても二、三時間で話せることではないと思うが、その一端を知ることができて本当によかった。

市民グループが企画をたて実行する「むさしの市民平和月間2017」は、日本国憲法が公布された11月3日から24日を中心に武蔵野市内各所で開かれ、最終は12月まで(12月3日:講演と写真展「飯館村からの報告」)続く。 
(本田一美)

山邉悠喜子さん
1929年東京生まれ、1941年中国東北部遼寧省本渓市に移住(父の赴任先「満州製鉄」)。1945年東北民主聯軍後勤衛生部に参加。1980年代末より中国東北黒竜江省・吉林省・遼寧省を中心に歴史調査。1990年代末より「731部隊・毒ガス全国展」に参加。(チラシより作成)

むさしの市民月間2017のチラシ

「むさしの市民平和月間2017」のチラシ

12月まで順次開催
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